キケンな〈なかま〉たち 
―地を這う20年を振り返って 前進友の会―
 [1]前進友の会との出会い  梅田 順士〈43才〉
私が、前進友の会と知り合ったのは、今から16年前、27歳の6月だったと記憶しています。

 学生時代の友人と一緒に、参加しました。その時は“みんなの部屋”などまだなく、会員のアパートで例会のような集まりがもたれていました。その当時、私は中京区のアパートに住んでいました。そこから、左京区の上高野にある製材所まで通勤していました。病者ということを隠さずに就職したので、職場の同僚とは、どうしても親しく付き合えませんでした。学生時代からの友人との付き合いも、あまりうまくいかなくなっていた頃でした。

 ある会員宅で行なわれていた、前進友の会の集まりに参加して、何だか、新しい世界に入ったようで、大変うれしかったことを覚えています。発病したのが21歳です。6年間、自分なりに、真剣に生きてきました。しかし、精神病院に、入院歴があるためどうしても、対人関係の面でうまくいかず、つまずくことが多かったようです。6年間、暗い季節が過ぎて行きました。絶えず孤独と隣り合わせ、病気のことを話せる人は余りいない。それは青春といえるようなものではなかった。友の会の集まりが確か6月の下旬だったように覚えています。メンバーは、病者もいれば、学生もおり看護者もいました。その雰囲気が、家庭的で、私もこの会に入れば、自分自身をそのままだせるような気がしました。話のテーマは、夏レクの件でした。鳥取まで、鈍行の夜行列車に乗っていく計画が練られていました。

 16年も前だから、友の会のメンバーも、ほとんどが20代でした。みんなの明るく弾んだ声がとても暖かく感じられました。病気のことを、隠さなくてもありのままの自分でおれる、私にとって、初めての場所でした。 それからしばらくたって、日の岡荘に6畳一間の“みんなの部屋”を、借りることが決定しました。7月の初めだったように覚えています。夏の暑い中、“みんなの部屋”のオープンの時、私も、仕事を終えて急いでかけつけました。6畳一間に17、8人の仲間がいて、若者の情熱と夏の暑さで、部屋中が、お祭り騒ぎのようでした。誰かが酒屋に行って生ビールを買ってきたが、それにつける注ぎ口がない。ある会員が、生ビールをナベに移し、それを玉じゃくしで、コップに注いでくれて、みんなで飲んだ。泡だらけのビールであったが、本当においしかった。ビールは19歳の時から飲んでいたが、いつも苦い味がした。この時のビールは最高にうまかった。一生忘れられない。あの当時、まだべんちゃんが20歳、西尾君も20歳、丸ちゃんが25歳、小山くんが23歳、そして山下くんが22歳だった。今ではとても信じられない光景だった。このあたりから仕事が終わると、よく日の岡荘かいわいに出掛けて行くようになった。

 また、友の会の仲間も、私のアパートに訪ねてきてくれた。そうこうしているうちに、7月の終わり、夏レクの日がやって来た。今から考えると不思議なことに、私はこの催しに参加していない。休みが続けて取れる職場ではなかったのである。この時鳥取に一緒に行っておればと、時々後悔することがある。みんなが鳥取まで海水浴に行くので、京都駅まで見送りに行った。京都駅の待合室で30分くらいみんなと話をして、山陰線に一緒に乗り込んだ。車内で鳥取まで一緒に行こうと誘われたが、明日のことを考えて断ってしまった。京都駅から二条駅まで電車に乗ってそこで降りた。二条駅から、アパートまでは案外近かった。夏レクも終わり、しばらくして“みんなの部屋”に行ってみると、写真も出来上がり、旅の思いで話に花が咲いている。出来上がった写真を見ると、結構おもしろい。まさに青春そのものだ。みんな楽しそうで、晴れやかな表情だ。このあたりから、前進友の会の活動が、一気に盛り上がっていったように思います。

 この16年間、本当に歳月の立つのが早かった。二条駅で降りて、アパートに帰り、大事にしていた朝顔に水をやったのが、つい昨日の晩のように思える。自分として、本当に残念なことは、友の会に参加していた仲間が、数多くこの世を去ったことだ。自殺、事故死、病死、年々友達が少なくなって行く。苦しいときあの人が生きていてくれたら‥‥、と考えるときもしばしばある。でも振り返っても何もない。何も生まれてこない。ただ、思い出すのは20代後半、うれしいにつけ、苦しいにつけ、仲間の前でよく泣いたことだ。あの時は、恥ずかしいという気持ちすらなかった。今、43歳、何かと社会に縛られる年令だ。しかし、自分で、自分自身の心まで縛ってしまうことは、したくない。もっと大らかに、仲間の前で自分自身を表現していきたい。

 前進友の会と私の青春は、共にあったように思えます。6畳一間の“みんなの部屋”で過ごした日々のことを、今の友の会の仲間に、なんらかの形で伝えていきたいと、思っています。
  [2] 空を見上げて   西尾 汀子〈47才〉
堀川病院外科病棟の個室の窓から、かすかに見えるイチョウの木を見ながら、きかなくなった手をギブスで支えて、友の会への想いをはせています。そして「ごかい」や「藤枝」や、他の患者会の皆さんとも、この地の底のような日々の中で、ともに生きていく「あかし」として、せめてもの声を送ります。
 何度か死にたいと思う日があった。それをともに支え合って生きて来たのは、私と友の会14年のつながりではなかろうか。死にかけた《なかま》を必死で介護していた日もあった。それでも、なんと多くの《なかま》たちが、この世を去っていったことか。私たちの結婚を反対しながらも、また応援してくれたKちゃん、親に反対されて自分の恋人と引き裂かれ、団地の5階から飛び降りて、この世を去ってしまった。寂しさと苦しさが打ち寄せてくる毎日だった。結婚式の司会をしてくれた親友のFちやんは、夫の親に、夫が『病』にかかったのは、すべてFちゃんのせいにされ、離婚そして帰郷、自殺という不幸な最後を迎えた。あぁ、なぜに生きいそいでしまったのかと思いつつ、彼女の悲痛なまでの叫びを、どうしてもっと受け止められなかったのだろうか。いまだに私は、1日として忘れたことがない。
 結婚直後、足を折って入院していた頃、一番松葉杖を出すのがうまかったAさん。昔の友の会の部屋で「腹を切って死ぬ」と言って、3ミリほど腹を切ったかと思うと「助けてくれ」とみんなに寄っていった彼は、やはり恋人ができたのだが『恋愛妄想』と闘う中で、その彼女以外の人にもあこがれ、その結果恋人はこの世を去った。毎日酒を浴びる日々だった。四畳半一間に隆さんのベットを入れ、うちのカーテンを引いて、小さなガスストーブをつけながら、百万本のバラを聞いていた。酒が身体に回り衰弱し、私はある時、そのほこりにまみれた小さな部屋に訪れると、あまり外も見えないような小さな窓から、じっと空を見上げていた。車が好きだった彼も、結局車にも乗れず、何の夢も果たせないまま、それから1週間後この世を去った。私や隆さんは、その四畳半一間のベットに裸にした彼に寝巻を着せ、プレゼントにもらったコップにご飯を入れ、はしをさし、最後のとむらいを行なった。
 Iさんは、京大の医学部を卒業していた。しかし国家資格試験を受ける前に発病した。結婚していたので、二人の子供を抱えていた。くる日もくる日も友の会に通いながら、国試の本を抱えていた。もう40数歳だった。医学部を出てしまったばっかりに他の職も選べず、家の手伝いをしながら、いつか医者になろうと思っていたのだろうか。なかば人生にあきらめを持っていたとはいえ、彼の国試の本が痛々しかった。ある日彼は、作業の箱を折った。自分のプライドをかなぐり捨て、箱を折り続けた。それから何日か後、彼は首を切って薬を飲み、死への道をたどった。やさしい、みんなにも面倒見のよい《なかま》だった。葬式の朝、バッハの鳴り響く中で、同期の医者たちが一緒に手を合わせていた。だが、私には、その医者たちがいらだたしく。時おりオーバーラップしてIさんの影と結び付き、Iさんの死を心から悼んだ。 
 あぁ、なんと多くの《なかま》が去っていった事だろう。私たち友の会は多くの《なかま》を失っても、これ以上『病い』と『差別』の被害者を出さないために、一人一人『病い』と闘いながら、ともに手を結んで助け合い、地を這うような毎日であっても、生きて生きて生き続けることを目指していこうと新たに思うのだった。
 今、友の会の食事会で、ささやかなものをみんなで作りながら、今日もまた、みんなの笑顔を見ることが、私の楽しみである。
[3] あのころの日の岡荘  小山 通子〈36才〉
私が、日の岡荘に足を踏み入れて早いもので、20年になります。
 1976年春 最初は、十全会東山サナトリウムの学生アルバイトの人達とパンフレットの発行作業に、軽い気持ちで来たことがこの長い付き合いの始まりとなったのです。精神病院についての何のイメージもなく、「兄弟だろ」の原稿を手渡されて、一気に世界が変わってしまいました。知らないことが、とても恐ろしいことだということを思い知らされました。ノートに記されたたくさんの人達の死。人間ではないような医者・看護婦。「電気ショック」「拘束」、人間が考えたこととはとても思えないような非人間的な「医療行為」、激しい恐怖に目もくらんでしまいそう。数ヵ月間でやっとパンフレットが刷り上がりました。私には何もできなかったのです。
 その秋に、「一回みんなで飛鳥にいこうか」と、初めてのレクを企画しました。退院したばかりの人、しんどそうな人、アルバイトの学生達。何人で行ったろうか。有り合わせの弁当をつつきながら、楽しい出会いのひととき。秋の早い日暮の中で一人の人が言った一言。私には忘れられないものでした。「しんどいけれど、退院して働く決心だ」、美しい月を見上げながら歌った唄。誰かが「病院の中ではなく、こうして一緒に見る月はとても美しいなぁ」と言った。鉄格子ではなく、友人と共に見る月はどんなに美しく感じられたのだろう。友の会の原点はここから始まったと信じています。
 忘年会、ボーリング大会と幾度となく集まって「前進友の会」という名前をつけることとなりました。(後日談ですが、特定のある政治団体と勘違いされて困ったこともある‥‥)
 最初のころは、学生だけが十全会告発の運動をしており、あくまでも学生主導型の活動でした。そうした中で、お互いに話し込んで行くと、どうしてもしっくりしないものがあり、何度か、逆に「なんで病院のことや、差別のことを隠すのか?」と切り返されることもありました。そして、やっと話をするようになっていったのですが、それが後々には例会という形で残って行きました。 今から思うと、よく日の岡荘に、夜になると、だれかれなくよくだべっていたのを思い出します。「家におったら、仕事に行け言われるわ」「薬のんどったら朝起きられへん」「金がないんや」、みんなもう十全会や家庭には帰りたくないみたい。頼れる医者もいないのにどうしていたのか不思議だった。なんやかや言いながら、いつも最後は「頑張ろうぜ。負けたらあかん」いっぱい唄って、叫び合って一晩過ごしては、狭い部屋で雑魚寝したっけ。ともかく働かなどうしようもないので「就職したら、一升瓶持って来いや」「おう、わかったわ」そんな約束がいつのまにか出来たりもしていました。とにかく、お互いを励まし合い、寄り集まっては一晩明かしたものです。

 78年5月のある日、一大事件が起こってしまった。いつか十全会でであったAさんが(十全会に面会に行ったとき、初めてであったのに、この前あったやんかと笑っていた人の良い青年の)、アルコール依存のやくざやさんに脅されて、院外に酒を買いに行ったのがばれて、強制退院になってしまったのです。それともう一人の人も。二人とも帰るところがないというし、とりあえず、学生の部屋で居候することにしたけど、これがまたすごいことになってしまって、何しろ誰もお金がないもんだから、「冷蔵庫のもん、食べていいゆうたんやんか」「だからって全部食べていいゆうてへんやろ」「試験前やからだまっとって」「頼むからなんかしゃべらせて」「うるさい」というぐあいで、衝突も結構あったりして。遊びに行くと待ってましたとばかりに、「あのなぁ、ちょっときいてんか」で始まり、2、3日寝ずの話を聞かされたりもしました。もう一人の人も、家族が近くにいるのだけども、ヤクザやさんとの接触などのこともあってやっぱり帰りづらいとのこと、もうたいへんだったなぁ。
 Aさんは結局何度か衝突があって、飛び出して行って滋賀県の草津にアパートを借りて、寝る時間を惜しんでアルバイトしてはったなあ。バイクで訪ねていったら、裸電球ひとつで寂しい部屋だったそうです。寝るのは3時間ぐらいで、ある日くたびれてやって来て「日の岡荘に帰って来たい」って泣いていたのを思い出します。いろいろあって「出てけ」って言ったけど、つらかったそうです。
 そんなことがあって、78年8月に日の岡荘に“みんなの部屋”を借りることになったのですが、Tさんが「これみんなのために使って」と一冊の貯金通帳を渡してくれました。こつこつと貯められていたお金。病気をおして仕事を続けながら「いつか何か役に立てたい」と集めたものだったそうです。通帳を見せてもらって、すごくありがたかったです。日の岡荘の大家さんもすごく独特の雰囲気のある人で、二つ返事で貸してくれました。この出会いも、後々の友の会にとっては欠かせないものでした。

 この年は、5月に「病」者集団の大野さんを招いての講演集会、8月京都での全障連大会、11月友の会3周年“もうひとりのアリス”上演講演集会と、すごくいろいろなことがあって、今までになく友の会の仲間が、京都市内、洛南病院、遠くは光愛病院まで広まったことです。ともかく、面会に行ってはまた、友達が増えていく感じで、毎日あっちこっちと飛び回っていました。そして、一番すごいことは、仲間のNくん、Mさんたちが、「病気のことを隠したいという自分の心に反して、忘れることが出来ないという思いを、日常の中で埋め尽くすことができない」と、初めて、自分達の言葉で話しはったことです。これは、病者部会というグループになっています。

 “みんなの部屋”ができて、ますますみんなよく来たものです。しんどくなって包丁で「もう死んだるわ」「そんなら死んでみろ」と言ってみんなで、真剣になって話したりなんて事もありました。生身の人間同志がぶつかり合うのですから、ときには怒鳴りあったり、お互いのプライバシーもなくなるぐらいの雑然とした部屋のときもありました。レク委員会・編集委員会・みんなの部屋委員会などの集まりで、いろいろな病院から仲間が集まるようになると、「部屋が明るいので」と、また一人二人と集まってにぎやかなものでした。私もそのころ引っ越して来ました。そして岩倉病院から退院してきたYさんも、いろいろしんどいこともあったな。友の会で障害年金をもらわはった最初の人やったんやけど、ともかくお酒が大好きな人やったから、近くのお好み焼きやさんに、ぼられる(お金をふんだくられる)。あれよあれよという間に身ぐるみ剥がされてしまっちゃって、すごいことになってしまったんです。それで寝られないからと、市販の睡眠薬を飲みすぎて倒れたり、お酒を飲み過ぎたりもあったし。でも何人かで自炊して楽しかった毎日。いつも独りでご飯を食べたことは、なかったです。仕送りの5万円のうち1万2千円は部屋代で、残りはほとんど食費でした。「もうお金あらへん」というと「ほんならアルバイトにいったら」で事の終り。誰かれなしに来て、戸を閉めてることがなかったよね。扇風機もストーブもなかったけど何だか楽しかったものです。番犬の犬まで台所にやってきたり、“みんなの部屋”で例会をしたりするときは、窓越しに顔を出していたよね。「あれ、次郎丸(犬の名前)盗み聞きしとんか」なんてね。Eちゃんはよく夜中の3時4時にやって来て「UFOがきたんやけど」「この時計あってへん」「コーヒーよんでんか(飲ませて)」「あのね、今何時かわからへんの」「家で言ったらお父さんに叱られるからいいやろ、コーヒーちょうだいな」なんてやりとりも‥‥。また十全会で準職員として働いていた人達も引っ越して来ていて、まるで子供のように付き合っていただきました。彼女たちの頼もしい暮らしぶりは頭が下がりました。このころ本当に日の岡荘は、20室のうち半分以上が、友の会の仲間だったので、月に一回くらい“日の岡荘会”という全員集合の会があって、鍋を囲んだりとまるで、大家族のようにみんなが付き合っていました。これは、大家さんのおおらかなやさしさが、ひとえに、みんなを包み込んでいてくれたのだと思います。とにかく、楽しかったし、みんな自由にありのままでアパートの中でいれました。

 さて、準職員というのは、十全会を退院するときに、働ける状態にある患者さんに「社会で働いたらいろいろたいへんなことがあるから」と差別を逆手にとって、安い賃金で働かされていた人達の事です。早出勤務などは午前4時にはアパートを出て、休息時間などほとんどない状態です。ある日、ずうっとためていたという給料明細を見せてくれました。凄く安いのです。アルバイトなら、14、5万にはなるだろうに、(それも20年近くも働いてはったのに)10万そこそこだったのです。だからといって、彼女たちが、陰気で暗いかというと、ゼンゼンそうではなく、華やかに女らしく、そしてエネルギッシュで、仁義ある暮らしぶりでした。それが78年11月に、十全会の不当強制入院問題が起こってしまったのです。「理事長命令だから、休養のつもりで3ヵ月入院してくれ」と、全く病院の都合で50人くらいの準職員の人達が、ある日には、マイクロバスに乗せられて、強制的に入院させられたのです。その勧告を受けられた4人から「なんとかならへんか」と相談があった。とりあえず岩倉病院に診察に行ったんだけど、誰も病気ではなく、十全会の言うような“休養”の必要は全くないわけ。すごいなあと感心したのは、堂々と「自由入院で、3ヵ月したら退院で、部屋はみんな一緒」と赤木理事長や医師たちと、彼女等は渡り合って入院したこと。でも、一番私が悔しかったのは、こんな不当なことを目の前にしながら、何一つ彼女たちが十全会から自由になれるもの《職場・金の問題》を用意できなかったことでした。そして唯一できるものとして、“反十全会市民連合”を友の会が中心となってやっていくこととなりました。
 しばらくして、NHKの「ドキュメンタリー日本」のスタッフが、日の岡荘を訪ねてきました。それから1ヵ月間の地獄のような合宿体制。進行役の作家井上光晴には、正直言って背筋がゾクゾクしました。みんなの部屋で「やるのか、引くのか」と迫られたときは、脳みそが引きずり出されるみたいでした。NくんとYさんが出演されました。Nくんの十全会への恨みを感じさせるものでした。しんどかったですよ。
 Oのおいちゃんも引っ越して来て、一人で博愛会病院の患者会“やまいも”を作って「わしは、会長兼小使いじゃ」とせっせとやってはった。「まだまだ隠居はしない。寺男する」とすごい勢いでした。おっちゃんのつながりで、また仲間が増えていきました。また、準職員だったSさんも越してこられて、堂々と実名で「私は、十全会に強制入院させられた。たくさんの人のために私は一人でも闘う」と長い人権擁護委員会への提訴の闘いに向かわれました。それは、Sさんのおっとりとした様子からは、到底想像できないくらい激しいものでした。心が洗われるような思いで一杯になりました。
 そんなある日、久しぶりに郷里に帰っている間に「個人的に負担がかかっているから、これからみんな自分で飯は食べる」ことが決まったらしく、一方的に言われて何だか気落ちしてしまいました。一緒に飯を食べることは、これ以後少なくなっていくのですが、私の心の中では今だに納得できないものを残してしまいました。楽しかったのになぁ。でも相変わらずの人間模様は、日の岡荘に繰り広げられていきました。巨人が負けると、宇宙語で叫ぶI氏。暑いのは苦手だからと3台もクーラーを付けてしまったGさん。Rさんや、Lちゃんも引っ越してきはった。ともかく、個性の強い人ばかりで夜になるとますますにぎやかだった。

 82年に結婚するまで、いろいろなお世話になった日の岡荘の皆さん。古い建物で、一階はいつも薄暗かったけどみんなの部屋には、いつも懐かしい思い出と、落ち着いて座り込める雰囲気がありました。85年に改装して今の“みんなの部屋”になりました。そして94年の11月に、古い部分は壊されてしまいました。これから何が建つかまだ決まっていないようです。それにしても日の岡荘として残らはったのは、RさんとKさんと大家さんだったTさんだけです。少し寂しいのですが、私の心の中では、あの頃の古ぼけたガラス窓とか、締まりの悪いトイレの扉、広々とした廊下だとかが、はっきり残っています。それは、何にもかえがたい生身でのぶつかり合いの日々でもありました。このころのことを、誰かが“思春期前の少年たち”とたとえた人がいましたが、今は、ひょっとしたら“壮年期”なのかもしれないです。毎日顔を合わしていながら、どこか大人びてしまって遠慮が先に立っているのは少し寂しいですが、まだまだ友の会の原点“共に生きる”はみんなの中にあります。若い青年たちの底抜けの明るさもうれしいです。そして何よりも差別の問題に対してはっきりとした姿勢を示していることです。前進友の会の中には、今も、あの頃の“みんなの部屋”が生き続けています。それは、彼の地に旅立っていってしまった仲間の志を引き受けながら、脈々とこれからも続いて行くと思います。
[4] 友の会の歩み、そして今 江端一起〈33才〉
             @前進のはじまり
 前進友の会は京都市山科区日ノ岡にあります。この近くに、医療法人十全会の経営する東山サナトリウムという「悪徳病院」が存在します。正に『病者』を食い物にして株買い占め・無資格診療・土地転がし等をしていた所です。「薬づけ」「ベッドしばり付け」「電気ショックづけ」で、次々と入院患者を殺し、たとえば初めて外来診察にきた女性にその場で電気ショックをやり、そのまま殺してしまった、たとえば9ヵ月間で859名もの死亡者をだしていた(朝日新聞1974年9月2日)等の事件は枚挙にいとまがありません。とうとう国会でも問題となりました。(この最初期の地獄のような病院の実態は、友の会のパンフ「兄弟だろ」に詳しいです)
 当時、その十全会病院に入院中、あるいは通院中の『病者』が、病院でアルバイトとして働いていた学生のアパートの一室に、遊びに来たりするようになってきました。そのアパートが日ノ岡荘でした。
 「精神科に入院させられたばっかりに仕事がない」「このままでは病院に殺されてしまう」「退院しても家族とうまくいかない」「隠れて薬を飲んで働かないかん、どないしょ」「十全会をいつかつぶしたる」こんな話をしながら、ハイキングに行ったり、ボーリング大会をしたりしました。その時、会の名前でもつけようかとある『病者』が考えたのが、《前進友の会》なのです。1976年のことでした。そのうち段々と会に10人20人と集まるようにもなり、京都市内の精神病院への面会活動も定期的に行けるようになり、《なかま》の輪はますます広がっていきました。そうしたある日、東山サナトリウムを強制退院させられた『病者』が行き先がなく、友の会を頼って訪ねてくるということがありました。学生の部屋で雑魚寝で毎日を過ごしていたのですが、頼れる家族もなくまして福祉も《なかま》にとっては『強制的に入院を迫る』恐ろしい所で大変な毎日でした。そこで、友の会としてこの際日ノ岡荘に一室を借りることとなりました。なけなしの貯金を「みんなのために」と差し出してくれる《なかま》、カンパも自力更正で集めました。それが、友の会《みんなの部屋》の誕生でした。《みんなの部屋》はみんなの憩いの場、集いの場、共同生活の場、駆け込み寺、そして《前進友の会》の事務局として機能するようになりました。

              A前進は続く
 その後、友の会は「集う」「レクる」だけではなく、『病者』がおかれている、この現実の日本社会の『差別』に対して、もうけと非人間的な拘禁のみの『精神医療』と称するものに対して、目を向けることとなります。「友の会で病院のことや病気のことを言うのはつらい」「差別の話はしたくない」、『病者』運動の扉はなかなか開けられませんでした。「学生アルバイトの考え方が走り過ぎている」「差別や精神医療の話を学生だけで話し合って自分たちがお客さんになっているのは、おかしいのではないんか」、何度も話し合いがもたれました。そして、難産の末に友の会としての方針として、つらいけれどもしっかり目を見開いていこう、《なかま》の問題はまた自分たちの問題として受け止めることから始めました。福祉を受けられない時代でしたので、その日暮しもままならず、自立の問題は大きな問題でした。何人かで職探しをしたり、食事をしたり、一回のご飯も食べられないときは廃品回収もしたりしました。「仕事がない!」「しっかり頑張れ!仕事を探してくるまであわへん」つらいことを《みんなの部屋》で語り合い、激励しあい夜を徹してよく集まりました。疲れてしまった《なかま》にわたしたち友の会で唯一できたことは、泣きたいときに共に泣き、励ましあい、歌を力の限り歌いながら「共に生きる」ことを手探りしていきました。「住む場所・仕事・金」の問題も大きな問題でした。病気をしっかりフォローしてくれる医者もおらず、家族もいず、つらい時代でした。そうであるからこそ、友の会の《なかま》への信頼感ははっきりと強められていきました。そうしてまた差別の問題、精神医療の変革に一歩でも前進しよう、そう考える中で「反十全会市民連合」「十全会準職員強制問題」「反保安処分闘争」」精神医療実態調査阻止」「赤堀さん奪還」等々の闘争に前進していきました。また、NHKのルポルタージュに何人かの《なかま》が出演するに当たり、1ヵ月間合宿体制で臨みました。「出たら仕事を辞めさせられるかも知れへん」「十全会にまた入院させられる」「何かあったらだれが責任をとるんや」、息詰まるような長い話し合いの中で、堂々と実名で出演して行きましたこの体験は《なかま》にとって、差別と闘う姿勢をはっきりとしめすものであり、そのしんどさを友の会として引き受けていこうという方針につながって行ったのです。しかし、友の会の活動が「つらい」と去って行く《なかま》もいました。
 一方ではまた『病者』『健常者』がともに生きていくことを目指して、日ノ岡荘は、さながら『病者』と『健常者』の共同住居ともなってしまいました。月1回の例会は30、40人と集まるようになり、とうとう一室では狭すぎると4室借りることにもなりました。ついにはアパートの半分以上が友の会の《なかま》が生活しているという状態になり、当時のアパートの大家さんも、一緒にレクに参加するようにもなってきました。
 また友の会の最大のイベント「夏レク2泊3日の海水浴の旅」は、京都のみならず、いろいろな場所の『精神病院』入院中、あるいは通院中の『病者』、学生、医療従事者等々の参加で毎回60名前後で行なわれるようになりました。80名の参加者になったこともあり、すっかり友の会活動として定着しています。ただ、その一方で、活動がいつのまにかスケジュール的になったり、『病者』同志の《なかま》としての話よりも、政治主義的、闘争的な話が中心になったり、と批判も目立つようになってきました。
 そして、《みんなの部屋》を当番制にして、いつも誰かがいるようにしていこうという中で、ただ集まっていても時間を持て余すという意見が出てきました。そして何よりも悲しいのは、どうしても日ノ岡荘でうまくやっていけず、他のアパートに越した二人の《なかま》が、相次いで不慮の死を遂げてしまったことです。そうしたことから、当時の大家さんの好意で、《みんなの部屋》を新しくし、そこで簡単な内職でもということになっていったのです。そしてそれが《やすらぎの里共同作業所》につながっていきます。

             B作業所という前進
 当初、作業所の運営には『病者』も『健常者』もともに《なかま》として一緒に活動していました。それゆえ多くの『病者』が消耗していったことも事実です。また、経済的に限界に達し、《みんなの部屋》の維持が難しくなる中で、京都市と京都府の認可を受けた作業所として、助成金を勝ち取ろうという意見が強まってきました。しかし、この議論の中で、非常に激しい論議があり、その結果古くからの前進友の会の《なかま》が何人か離れていったことも事実です。しかも、府と市は、これまでの友の会の活動をとらえて、運動団体には金を出さないという姿勢を崩しませんでした。長い行政交渉が続きました。その意味ではすさまじい対行政闘争が続けられました。
 その結果、市の助成金は88年から、府の助成金は89年から奪い取りました。この間 やすらぎの里を支える会 を結成し、広く市民運動としての展開をするとともに、物心両面の支援を戴き、この難局を乗り切りました。

            C前進友の会と作業所
 その一方で、本来作業所の母体であった《前進友の会》の活動が相対的に低迷してしまいました。ほぼこの時代に、ボクは入っています。「ここには、もはや友の会はなくなってしまった」「これでは作業所が99で友の会が1や」と、離れていってしまった《なかま》もいます。そして『自殺』という悲しい、本当に悲しい《なかま》との別れがたびかさなりました。『病者』と『健常者』との共同運営であったものが、いつのまにか『健常者』中心に作業所を運営している現実に批判が飛び出しました。また、作業所に来るようになった新しい《なかま》の、「ここには金もうけのために来ているのだ」「重い人は夏レクにつれてくるな」「重い患者は病院に入院してたらいいんや、わざわざ連れて来るな」「運動という余計なことはせんでいい」という発言に古くからの友の会の《なかま》が傷ついたり、黙ってしまったりする現実も生まれてきました。《支えあって生きる》のではなく《なかま》の間で、「あなた支える人、わたし支えてもらう人」という様に別れてきてしまったのも現実です。
 そこで《前進友の会》の復活と《やすらぎの里共同作業所》の刷新が行なわれました。90年頃からのことでした。

            Dやすらぎの里の前進
 やすらぎの里共同作業所の基本方針としては、多くの作業所が「社会復帰」に重点がおかれ、その運営も家族会が中心になることが多い中で、『精神病者』自身が設立主体として「作業所」を運営していくことに、こだわっていきたいと考えています。「社会復帰=良いこと」という考え方には、まっこうから反対し、「反社会復帰」「反作業所」を目指す作業所でありたいと望んでおります。
 「作業所」ではなく《たまりば》を、「支える」ではなく《支えあっていきる》を「先生・指導者・ヴォランティア」ではなく《なかま》を、「作業」ではなく《長生き》することを目標としています。
 『病者』も『健常者』も、お互いの壁を越えて、「社会復帰」などという幻想にしばられない、自由な自分らしい生き方を、じっくり考えあえる《たまりば》《なかま》でありたい、とそう願っています。
 具体的には、《みんなの部屋》で日がな一日、みんなでワイワイとだべったり、悩みを聞き合ったりしています。天気がよければお散歩です。これまで日がな一日やっていた内職作業のモール作業は一人の《なかま》の死によって、これでよかったのかという厳しい議論の末に、ついにスッパリやめました。92年の、このことが現在の《みんなの部屋》の雰囲気をガラリと変えることとなります。友の会の精神が戻って来ました。                月曜日は午後1時から5時までですが、「自主活動」ということで、自分のしたい事、好きな事をしています。入院中の《なかま》への面会へ行ったりもします。火曜日と金曜日は、午前10時から午後3時までで、昼食会をやっています。みんなで作り、そしてみんなで食べるお昼ご飯は最高です。一人より《なかま》です。
 木曜日は午後1時から5時までで、「茶話会」ということで『精神病者』差別や偏見等、赤裸々な精神病院批判や、保護室体験談、電気ショック体験や家族からのイジメ話も飛び出し、また、反原発運動や狭山闘争などに取り組んでいる皆さんとの交流の場にもなっています。水曜日は午後1時から5時までです。なんや結局ワイワイ言うてます。
 こういった中で、作業所が集めてきた廃油から手作りしている「やすらぎセッケン」は、リサイクル運動、反公害運動などの、市民運動の人々をつなぐものです。このつながりの中に、来るべき未来が『共生社会』であるよう願っています。もっとも、セッケン造りの作業自体は、けっこう難しくて、けっこう重労働ですけれども。

            E まだまだ前進する
 友の会の復活をかけて、90年「友の会全員大集合」を開きました。そこで、これまでにははっきりしていなかった[総会][会則][会費][役員]をこの際はっきりと決めて、みんなで再出発することとなりました。以来[総会]としては毎回開き、会費も集められるようになりました。
 [会則]には活動として「@会員相互の団結と、仲間の経済的精神的自立を深める」「Aあらゆる障害者差別に反対する」「B『障害者』の人権擁護と諸権利獲得の闘争を展開する」「C現状の『精神医療』を批判していく」ことが、76年から引き続いてきた友の会活動として、再確認されました。
 「友の会通信」もほぼ定期的に発行されるようになり、『病者』運動にとっても意義のある原稿も掲載できるようになってきました。もう発行部数も900部を越えそうです。原稿募集や通信発想を通じて、また《なかま》としてのつながりも再度広がり始めています。廊下の突き当たりで20円喫茶コーナー「ゆうゆう」も始めました。例会のかわりに友の会活動の場としてのミーティングも、月2回定期的に持つことができるようになってきました。やっぱし時々飛びますけど。夏レクも今年で20回目を迎えます。やすらぎの里とも協力して冬レク、秋レク、春レク花見焼肉の宴も続けています。年末年始の寂しい時期、年越会や当番を決めて、《みんなの部屋》も開けておくこともできるようになってきました。《みんなの部屋》が作業場だけでなく、本当に《なかま》がワイワイできる場に戻ってきたようです。
 また《なかま》として入院中の《なかま》を孤立させず、「病院訪問」や「退院支援」というような事をしたり、生活に困難を感じている《なかま》に対して「生活支援」というような事を続けたりしています。つまりは、入院したらすぐみんなでお見舞いに行ったり、一緒にアパートの部屋の掃除をしたりとか電気製品を買いに行って使い方を教えっこしたりとかしていることなんです。
 「処遇困難者病棟新設阻止闘争」では、厚生省交渉に参加しました。「交通費要求闘争」では、独自署名をもって取り組んでいる最中で、この後行政交渉を持つべく準備中です。「青山闘争」では街頭で署名集めを取り組みました。93年「大和川病院糾弾闘争」では最初の集会に参加し、ビラをまいてきました。「十全会闘争」をになってきた《前進友の会》ゆえに、この虐待事件には、徹底して糾弾して行きたいと考えています。「公的扶助研究」の『差別』川柳の事件も、さっそく「抗議文」を作成し、たまたま京都で開催されたPSW大会や病院地域精神医学会にビラまきに行きました。
 共闘関係も、広がってきました。この山科の地で山科郵便局解放研・解放同盟辰巳支部・在日韓国青年同盟・トマホーク阻止連絡会議京都と反差別地域共闘という形で月1回の定例会議を持つようになっています。「やすらぎセッケン」「交通費要求闘争」「モムカレンダー」を通じて、「滋賀かんきょう生協」や「京都自治労」「ユニオンらくだ」「全逓簡保支部」とも交流はますます深まりつつあります。

           F そしてこれからの前進
 94年5月の松山での精神神経学会は、ここ数年の最大の喜びの一つでした。「ごかい」の屋上で「ごかい」「藤枝友の会」「前進友の会」「全国精神病者集団」の《なかま》が語り合う、しかも学会のしょーもない医者を前に共同して色んな行動も取れたことは、素晴らしい、楽しい出来事でした。あの輪になって語り合ったことは、忘れられません。あの記録ビデオを見るたびに思い出し、力が沸いてきます。うれし〜い思い出で一杯です。この輪から出発して、これから友の会は、この本の《なかま》ともっともっと《友達》になっていける、なっていくことが楽しみです。でもこの所新たに出て来た「精神障害者手帳」「精神科救急」「地域精神保険」「PICU」「病院近代化」「機能分化」なるものの動きや「全家連」「全精連」等の動きに対しては、『病者』の感性として非常に危うい臭いを感じています。はっきり言ってプンプン臭う感じです。
 《前進友の会》は76年に前進し始めて、今年で20回記念夏レクです。この間いろいろなことがありました。でも私達は《なかま》という点に立脚しながら、《みんなの部屋》を集いと憩いと出撃の場として、「やすらぎの里共同作業所」とともに、地域の中で人間らしく当たり前に生きていける場を、地面に着実に根をはり巡らし続けて、真に共に生きることが出来る社会を目指して、前進を続けます。皆さん、友だちになりましょう、共に闘いましょう!!
(5) 友の会の考え方  《支えあって生きる》という考え方
  第1幕1場 《みんなの部屋》にて
森さん  「冷蔵庫が、戸開けても煙出てこんようになって、冷えへんように      なった、うち来てみてくれ」
えばっち 「それはな、森さん、気温の差があるときに出る蒸気やから、季節      が変わったせいで、どーもないよ」
森さん  「テレビが壊れてしもた、うち来て見てや。便所の水も止まらんようになってしもた、天井も腐っとる、アンカが熱うならん、見に来てや、見に来てや」
えばっち 「よ〜〜〜し行こか、森さんとこ行って電気製品みんな点検しょう      かいな」
べんちゃん「ほな私も行って森さんの衣類整理せな」
汀子   「森さん、お風呂はうちには入りにきたらええのよ」
森さん  「ありがとなぁ。壊れてへんか」
えばっち 「森さん一つも壊れてへん。ちゃーんと調節しておいたからわから      んつまみやスイッチはさわらん方がええで」
森さん  「ありがと、壊れてへんか、壊れてへんか」
えばっち 「ほんま壊れてへん、ちゃんとしといたからな、森さん」
 第1幕第2場 そして1ヵ月後
えばっち 「お〜〜〜い、誰か一緒に名古屋の会議行こうやわい一人で行くん      はしんどい、もうしんどいねん、誰か一緒に行こうな」
森さん  「よ〜〜〜し、わいが一緒にいったろ」
えばっち 「ありがとう、森さん、ほな一緒に行こか」
倉持   「通信は発行しておきますから、安心して行って来て下さい」
 第2幕1場 食事会の買い出し
べんちゃん「今日はなんにしょうかね、みんなで決めてや」
みんな  「久しぶりにスパゲッティは」
べんちゃん「うんそれじゃあ買い物行こか、荷物持ってな〜」
男衆   「ほなみんな行こか行こか行こか行くか行くか行くか」
島田   「留守番して、お湯わかしておくわね」
 第2幕2場 そして準備
買い出しに行ったなかま「ただいま〜〜〜」
くごちゃん もとちゃん まつむらくん「ほいじゃ、ぼくたち切りまーす」
山本   「ぼくも野菜切ります、包丁とまな板を」
堀江   「それじゃあ、病院に入院しているなかまを迎えに行ってくるわ」藤本 清水「帰りは私たちが送って行きます」
 第3場 明日はバザー
藤原   「明日は僕が運転しましょうか」
土屋   「わたしらも行くわ」
たけちゃん「うん行こか」
山本   「僕も行きますよ」
市野   「僕の力はこういうときの荷物持ちに発揮です」
藤本   「運転もう一人行きましょうか」
清水   「明日寒かったら、藤本さんの身体が」
べんちゃん「ほな午前と午後で交替しよか」
仁科   「値段を書くのは僕がやりましょう、まかしてください」
中南   「直接に行っていいですか、差し入れ持って行きますよ」
 第4場 退院準備、そして引っ越し
藤田   「え〜〜〜と、どうしたらいいんでしょうね」
べんちゃん「天理教の会長さんとこには私が行くわ、宿舎の荷物持持ってこよ      、心配しぃひんでも、みんなでやろな」
梅田   「不動産屋はわいにまかしとけ、なんとかなるからな」
堀江   「電気製品はやすらぎの星号で買いに行こか、誰か一緒に行くか」林 地崎 「僕らも行きたいです」
藤本 清水「車の運転は、やるよ」
えばっち 「布団は、買うてアパートまで運ぶわ、でもわいと藤田さんのセン      スではなぁ、とんでもない布団になったりして」
大友   「私が一緒に行って見たげるわ、行こう」
藤田   「みんな、ありがとう、この御恩は一生忘れません」
みんな  「そんなおおげさな」
梅田   「これがほんまの支え合って生きるということや」
《反社会復帰》という考え方
 前進友の会の20年、つらいことも苦しいこともありました。『自殺』という《なかま》との別れも随分になります。若い《なかま》が『自殺』していく、つらいです。苦しいです。早くに亡くなった《なかま》の分まで《長生き》するのが、残ってしまった、残されたワシらの目標なんです。でも楽しいこと、うれしいこともたくさんありました。《なかま》同志の結婚もあります。30年以上も入院生活をしていた《なかま》が退院して一人暮らしをはじめることが《なかま》の力でできています。家族から逃げ出さざるをえなかった《なかま》もいます。職場から、地域から、学園から追い出されて来た《なかま》がいます。こうした《なかま》の20年の生きざまが《反社会復帰》という友の会の考え方を生みました。理屈ではなく《生きざま》なのです。《支え合って生きる》ことも《反社会復帰》ということも、まさに友の会の《生きざま》なのです。

 そもそもは《働く権利》などというものは、家族会や厚生省がいくら「社会復帰」を言いたてようが、マスコミが安っぽく「ノーマライゼーション」というハイカラな言葉を使おうが、実質的に『病者』にはまるっきり保障されていないということです。郵便局には『精神障害者復職等審査委員会』などという『病者』だけを対象としたハードルが制度としてある訳ですし、しかも、「労働安全衛生法」「労働安全規則」には、就業禁止規定が存在しますし、「最低賃金法」については適用が除外されていますし、「国家公務員法」「人事院規則」では免職条項が存在します。また「欠格条項」として種々の免許や資格から、驚いたことに自動車免許証を含めて、排除されています。法や、制度として、こんなことが存在していることを認めたうえで、いくら「社会復帰」を言おうが、それはギマンでしかないと思います。大体こんな現状を追認しておいて、家族会流の「働くこと=社会復帰」だという考え方には危険なものを感じます。そして『働かない権利』は、もっと保障されていないということです。『働かない自由』ではありません。『働かない権利』なのです。耳慣れない言葉かも知れません。でも実は『病者』にとっては『働く権利』より重要なものかも知れません。
 たとえば、もっとも労働条件がよいとされている公務員の職場ですら、「国家公務員法」には免職規定があるという中で、『病気』になったからといって「病気休職」でゆっくり休むということが、はたして安心してできるでしょうか。
 しかもそもそも、『病気』というだけでなく、職場の受け入れ体制の問題もあるでしょうし、そしてそれは、もっと広い意味での『環境』『社会』の問題にもかかわってくる問題であると思うのです。「労働できない環境」「労働できない時期」「労働できない状態」「今はよいが労働すれば悪化する可能性が高い環境」「今はよいが労働すれば悪化する可能性が高い時期」「今はよいが労働すれば悪化する可能性が高い状態」といろいろあるなかで真に「休息」を欲しているときに、「社会復帰」という美名で働くことを、何ゆえ強制させられなければならないのか。
 しかも、『働かない権利』を実質保障しないために、まさに今「休養」が必要なときに、金が無くなって働かざるをえない状況に『病人』を追い込んだりする。
 具体的には、病気休職中の賃金の保障をしないことであったり、生活保護を打ち切ったり減らしたりすることであったり、障害年金を認めようとしないことであったりする。地域の「変な人が昼間からブラブラしてる」という冷たい眼であったり、親の「弟は、ちゃんと自分の食いぶちぐらいは稼いでいるのにおまえは何だ。働かざるもの食うべからず」というエゴであったりする。妹が弟がはっきり言い放つ「ムダ飯ぐい」と。医者が看護婦が言う「働けるようにならなければ退院させませんよ」と。作業所の指導員が叫ぶ「こんなもん1日30個ぐらいは作れなきゃ一人前とはいわんのや」と。保健婦も言う「さぁ次は就職ね、通リハがあるわよ」と猫なで声で。そうして自ら「なんとかしてでも働かなければ一人前ではない」と思いこまされ、アセリがつのっていく。『病者』はつらいのです。ほんとにつらいなぁ。
 「休養」が必要なときに、こうして「社会復帰」という美名で働くことを強制され、悪化し、しんどくなり、再入院になり、『自殺』という形で殺されたりする。何度も何度もこうしたことを繰り返し、苦しみ、殺されていった《なかま》がなんと多いことか。そして、結局しんどい時が長くなり、苦しみの時は長かったのです。
 これが「社会復帰」「労働」という名のギマンでなくてなんであろうか。『働く権利』『働かない権利』両方を同時に保障しないということは、我々に『死ね』ということなのであろうか。しかり、その通りなのであろう。結局ワシら『病者』は「正常な市民社会」というものの運営にはジャマなのであろう。我々の『狂気』が「正常な市民社会」から飛び出したものであるが故に。
 こう考えてくると、「社会復帰」という時にその復帰しようとしている『社会』とはそもそも何なのであろうか。そもそも復帰したいような『社会』『職場』であるのだろうか。『病者』が労働するというその『労働』とは何であるのか。もう一度根底から考え直さざるを得ないように感じるのです。
 そしてその疑問は、『健常者』が「企業戦士」に無理やりさせられ『過労死』という形で殺されているという現実、たとえば友の会共闘団体の労働者《なかま》の切実な」おれもあんなとこできるもんなら早く辞めたいよ」「仕事はヤッパシしんどいなぁ」「職場がだんだん忙しく、潤いがなくなってきた」「労組もひどいあてにはならん」という叫びを考えるとき、この社会を変革する力は、ハズかしめられハイジョされオトシいれられダマされコロされ続けてきた我々『病者』『障害者』の側にあるのではないだろうか、という回答に結び付いてゆくのです。
 まさにど〜してもワシらの『狂気』が『正常な市民社会』の枠から飛び出してしまうが故に。


 後書き
ほんとに、スゴイ原稿ばかりや。ほんとにスゴイ生きざまというか、『病者』が《キチガイ》を丸出しにして、生きて行くとは、こういうことなんやと思います。ここには《キチガイ》の生の叫びが、怒りや悩みや苦しみや哀しみや喜びや、わめき声やおたけびや、歓喜の叫びが満ちあふれとるがな。もう、そうとしか言えません。この本を手に取られた皆さんに言いたい。どうか最後まですべて読んでください。ここには、なんだか訳のわからんパワァが充満しとる。
 何が健常者じゃぁ。そんなもんはワシら《キチガイ》の怒りや悩みや苦しみや哀しみや喜びや、わめき声やおたけびや、歓喜の叫びが、いつか必ずブチ壊したる。そう断言します、いつか必ず。十全会病院いつかツブしたる。何が厚生省じゃぁ、何が全精連じゃぁ、何が精神障害者手帳じゃぁ、何が全家連じゃぁ、何がディケアじゃぁ、何が精神科救急じゃぁ、何が地域精神保健じゃぁ、何が『処遇者困難者専門病棟』じゃぁ、何がPICUじゃぁ、何が病院近代化じゃぁ、何が機能分化じゃぁちゃうねん、ほんま。臭うとるやないか。そんなもんプンプン臭うとる。理屈やない、みんなオカミのオコボレかキバ抜きか、オカミのクサリじゃぁ。そういやぁクスリとクサリ―字の違い、全国の精神病院に入院中の『病者』が、クスリを飲むのをいっせいに辞めたら、大暴動がおきるんとちゃうやろか。ともかく今ここにあるワイら『病者』《キチガイ》の生の叫びを、オカミのアンタら聞いてみいと言いたい。オカミのアンタらは、ほんまはワシら《キチガイ》が怖いとちゃうか。そうや、その通り。ワシらはアンタらにとっては、撤頭徹尾、徹底的にまったくもって《キケン》やでぇーぇ。

 ともかくスッゴイ本がでけた。よーーぅでけたと思う。結構できあがってくる過程でもいろいろあつて、まぁそれもほんま良かったけど、「ごかい」のみなさん、事務局やワープロ、ほんとに大変でした。ありがとうございました。もっともっとたくさんの《なかま》にもと思っていたのに、締め切りの関係や、『病状』の関係で、書きたくても書けなかった《なかま》や、間に合わなかった《なかま》がたくさんいてました。それに、ワイらが今の段階で知らへんかった患者会もあると思います。残念です。でもまた10年ぐらいたったら、この続編を出しませんか。その時は、この本を読んでいる《なかま》のアナタも書いてみませんか。たつた一人で、孤立してて、医者と家族としか話し相手もいなくて、もうダメだぁこんな病気にかかって、人生が終わった、苦しんでるのは私一人やと感じている、そういう《なかま》のアナタに、心から、ほんまに《なかま》としての心からの挨拶を送ります。アナタは決して一人ではありません。こんなに《なかま》がいてるじゃないですか。この本の最後に、各地の患者会の住所と電話番号が載ってます。ともかく各地のワイらに連絡下さい。電話手紙歓迎です、ドンドンたずねて来て下さい。大歓迎や。ほんまに歓迎します。ともだちになりましょう。《なかま》になりましょう。アナタは決して一人じゃないかよ。ワイらが、全国各地に地を這うように、この本のワイらがおるんですがな。

 最後に、もしできたら夢をひとつ。まずはこの本を書いた《なかま》の所を全国回って、写真の横に名前のサインを一人一人貰って、ともだちを増やして行きたいです。そしてそのサインが全部書かれた本は、この世に唯一冊の宝物になるんです。あっ、そういう宝物が、全国各地に何冊もあったら、もっとスゲェんですね。それではまた。
(江端一起)           




目次のページに戻る
inserted by FC2 system