オープンスペース街・日誌



2004年7月C
7月Bへ 7月Dへ

名護新基地建設絶対反対!   ボーリング調査絶対阻止!
 
座り込み支援カンパ!!
         
よろしくおねがいします!


7月21日(水) 「街」日誌

台所をキレイにするヨッシー いままで、「街」で撮ってきたビデオの整理をしました! ボランティアのちーちゃん「ふぅ」と一息

「おもーい!」 お客さんも交えてお茶の時間

下田禮子さんから送っていただいたジャガイモ! 今日の夕ご飯はうなぎ 今日は土用のうっしのひ!

7月20日(火)  座り込み93日目。辺野古・阻止行動日誌

・防衛施設局は来ませんでした。

連休明けに来ると思っていた防衛施設局は来ませんでした。人事移動の時期なのでしょうか。
7月27日は座り込みを始めた4月19日からちょうど「100日」を迎えます。始めの頃「3桁に行かずに終わればいいね」なんてことを話していたことを思い出します。
「基地建設阻止座り込み、2639日間(命を守る会の8年間)+〜日目」の看板が少しボロッとして痛々しいが、それに3桁目を付け加えなければならなくなった。
100日を勝ち取ってきたことが誇り高くもあり、100日も続けなければならないということで悲しくもあり。がんばりが足らないということだろうか。
まだ勝っていないのだから。
とにかく、7月27日は「100日集会」が座り込み現場で行われます。午後7時からです。参加される方々はくれぐれも漁港内に駐車をしない、部落内は徐行といった基本的なルール、マナーを守りましょう。私達の行動を世界中の人達が見守っています。

戦場となった辺野古で、戦時下の日本で叫ぶ「基地建設はいらねぇーーー!!!」。

・海の日
「海の日」反対行動に参加していたかんきちさんから報告を聞きました。
「だいたい人数は40名くらいかな。場所は浦添の埋め立てられた漁港の先だった。まよなかしんやさんが歌い、ヤマジンが歌いなかなか良かったよ。
僕もいきなり、那覇でやっている行動について発言を求められてびっくりした。
印象に残っているのは浦添の海があんなにもきれいだったことを知らなかったこと。本当にきれいだった。忘れられないな。」
私も何度か、浦添の海をしんやさんに案内されいきました。昼に行くとさんご礁がぶあーーと広がっている。夕方になると水平線に夕日が沈む。しかし、そこはこの30年間以上浜辺に入れない、海で遊べない海なのです。「キャンプ・キンザー」米海兵隊基地があるために。
まよなかしんやさんは「海の見えない街」という歌を歌っています。「海の見えない街、誰かがそういったこの街のことを。いつまで見えない、いつになったらみえるのか。」と。
海の日を取り戻すということはこの沖縄の基地をなくしこの海を取り戻すことにあります。そういう願いを込めて私も海の日に反対します。天皇をあがめるために出来た公休日なんてごめんだ!!

読売新聞
広島被爆者の眠る島・似島で14年ぶり遺骨発掘

 広島原爆の被爆者のうち約1万人が運ばれたあと、多数が死亡し、〈犠牲者の眠る島〉といわれる広島湾の似島(にのしま)で、14年ぶり3回目の遺骨発掘が先月から今月にかけて行われており、21日までに62体の遺骨が見つかった。遺骨は8月6日の広島原爆忌までに、平和記念公園の原爆供養塔に納められる。

 似島は広島市の沖合約4キロに浮かぶ。面積約4平方キロ・メートル、緑の小山がすそを引く小さな島だ。発掘場所は、犠牲者が埋葬されたという馬匹(ばひつ)検疫所跡地。過去2回も同跡地で行われた。

 民有地との境界が昨年画定したのを受け、島民から市に発掘の要望があり、未発掘の国有地660平方メートルで実施されている。

 発掘は6月14日から始まり、遺骨のほか、学生服のボタン、腕時計、ベルトのバックル、印鑑、朱肉など34点も出てきた。市は遺品を公開し、遺族探しを進める。

 戦後間もなく島内各地から収集された遺骨2000体分は1955年、この年建てられた原爆供養塔に移された。その後、同跡地での土木工事に伴い、71年には617体の遺骨が、90年にはスコップ300杯分の骨灰と骨片が掘り起こされた。

 45年8月6日の原爆投下直後から、被爆者は島に運ばれてきた。「男も女も区別できないほど、焼けただれていた。運び込まれると、すぐに死んでいった。死者はモノのように処理された」。似島在住の宮崎多助さん(86)が、当時看護婦として被爆者に接した妻(故人)から聞いた惨状だ。

 死体は馬匹検疫所の構内や周辺で積み重ねられて火葬され埋葬されたが、火葬が追いつかず、防空ごうに埋葬されたこともあったという。

 似島は、日清戦争時に、陸軍の似島検疫所と馬匹検疫所が設置され、戦地から戻った兵士たちが伝染病の診察を受けたりした。原爆で廃虚化した広島市街に対して、爆心地から約8キロ離れた似島では、建物はほぼ無事だった。このため似島検疫所は8月25日まで臨時野戦病院に転用され、被爆者が船で収容されたのだった。

 原爆による死者は、45年末までに、14万人に達したといわれる。似島にもまだ犠牲者が眠っていると見られるが、埋葬場所がはっきりしないことなどもあり、市は今後の発掘予定はないとしている。

          ◇

 原爆忌の8月6日、平和記念公園で平和記念式典が開かれる。昨年並みの約4万人が参加し、原爆が投下された午前8時15分には、遺族代表ら2人が平和の鐘を鳴らす。



7月20日(火) 「街」日誌

神保さん手作りの袋物の寄付 色んな柄がいっぱい 昼食、手折れそばと大豆のトマト煮
この壁を開けるぞ、と、ハネやん バリバリ・・・・・ おおっと!!しんちゃんの蹴りが一発!
ズボッ!! 
木枠をていねいにはずして・・ りっぱな収納スペース完成。
思わず座り込む富田さん
鑑定士Oさん登場。今日は腕時計について
教えてくれる
おきゃくさんと宝石について話が
盛り上がる
産直のかぼちゃ、レタス、セロリ ズッキーニ、胡瓜、ピーマン
自然村さんから鍋の寄付 佐竹さんからキャベツとインゲンの寄付 いつもありがとうございます\(^o^)/
コジマさん、ビールについているフィギア
について教えてくれる。
今発売中。「ビールは飲まないから
あげるネ」
沖縄のフィギアでした
夕食、揚げ鶏のネギソースかけ ”なすごろし” とうもろこし
いただきま〜す デザートは差入れのメロン おいしーい


7月19日(月) 「街」日誌

「新たな核戦争をくいとめよう! 7・19反戦反核東京集会」に行ってきました!
武蔵関から、阿佐ヶ谷に出発!
駅前にいたかわいい格好の女の子
主催者あいさつ。
第五福竜丸乗組員の大石又七さん
1982年の映画、「原発切抜帖」

1945年広島の原爆第一報に始まり、原発大国へと突き進む日本の戦後史を新聞記事の早めくりで映像化 監督の土本典昭さん
「核と人間は共存できない!」

放射線医学専門の松井英介さんのお話。

「劣化ウラン弾」の人体への影響をスライドで紹介。

日本の電力会社は、ウラン235の濃縮をアメリカに委託することによって、「劣化ウラン弾」の製造を手伝っているそうです!

←731部隊細菌戦裁判原告代表の王選さん


731部隊細菌戦裁判キャンペーン委員会の奈須さん→

帰り道、阿佐ヶ谷の商店街で見つけた焼鮎の和菓子 「街」に帰って夕ご飯
ハネやん特製沖縄ソバでした!
いただきまーす!



7月17日(土)〜18日(日) 「街」日誌
ノンセクトラディカル 現代の写真III 2004.7.17 Sat. - 9.20 Mon.
石川真生
1953年に沖繩で生まれる。1973年東京のワークショップ写真学校「東松照明教室」に学び、本格的に写真家としての活動を開始する。石川は、一貫して沖繩を主題に作品を制作しており、決してドキュメンタリーとしてではなく様々な沖繩の人々の生活の有り様を自らの生き方そのものを通して表現する。2002年の写真とエッセイによる自叙伝「沖縄ソウル」をはじめ、これまでにも「熱き日々inキャンプハンセン」(1982年)、「フィリピン」(1989年)、「港町エレジー」(1990年)、「沖縄芝居・仲田幸子一行物語」(1991年)、「沖縄と自衛隊」(1995年)等、数々の書籍を出版している。

沖縄ソウル―戦世(いくさゆ)48年目の夏 《 沖縄ソウル―戦世
(いくさゆ)48年目の夏》
1992年4月21日、
ゼラチン・シルバー・プリント、
86.6×99.0cm
作家蔵
会期:2004年7月17日(土)〜9月20日(月・祝)
会場:横浜美術館 企画展示室
 前日のレセプションに則子さんが行ってきました  「街」の運営委員の川田文子さんと石川真生さん
真生さんの勝負顔  真生さんの勝負服

 昼食は差入れの信州・手折れソバ。
そばの香りがして夏はこれに限る。
三時のオヤツの時、8・9ナガサキの人が来てお話。
 夕方のミーティングの前の、恒例「街」前アピール
 夕食は夏野菜カレー再登場。
 デザートはヒロシマからの差入れのマンゴー・プリンに、杏仁豆腐を加えたデザート。タカちゃんはビールで日焼け
 差入れ、ありがとう (^o^)丿
則子さんのヨコハマ土産。ゴーヤー・シュウマイ
 北京出身の留学生、羅さん・陸さんが「街」のパソコンで遊ぶ  ハネやん、何か企んでいます。
18日(日)
 18日は皆でヨコハマへGO!
ノンセクトラディカル 現代の写真III 2004.7.17 Sat. - 9.20 Mon.
 西武新宿線・国鉄・東横線を乗り継いで、つまみ食いをしながら…「みなとみらい駅」へ。
まずは水浴び
 横浜美術館に到着 (^o^)丿  展示物は写真撮影できないので…
 真生さんの写真が沢山ありました。どの写真も生き生きとした人間が写されていて圧倒的な迫力でした。
辺野古の座り込みの写真では、富田さん・中馬さん・SAORIちゃんがスクラムを組んでいるのがありました。
 石川真生写真館 

1953年4月26日、沖縄県生まれ。

沖縄県豊見城市(とみぐすくし)在住。

  日本祖国復帰運動まっさかりの高校3年生(71〜72年)の頃、学校にはほとんど行かず反戦・反基地運動にのめり込んでいた。だがデモ行進の中で、「私は人とつるんで運動するタイプではない。でも、この燃える島・沖縄を何かで表現したい。そうだ、カメラマンになろう!」と決意。

 家出をし活動していたが、親に連れ戻され家の中に監禁された。だが、スキを見て東京へ逃げ出したので卒業式にも出れなかった。

 20歳の時、東京にあったワークショップ写真学校「東松照明教室」に学ぶ。 沖縄に戻った後は、沖縄にこだわり人々の人生を撮りつづけている。時々、沖縄に関係のある人を追いかけてヤマト(本土)や外国に行くこともあるが、あくまでも対象は「沖縄」。
 「人の人生ほどおもしろいものはない」と、一貫して人間しか撮らない。自称、「沖縄民族主義者」。

 母、娘一人、娘婿一人、孫三人、亭主なし、ボーイフレンドいっぱいの50歳の独身女性です。
ホームページより転載

 動く歩道で桜木町へ
 野毛の中華料理店に入り乾杯  中国焼きそば
 テレビでお馴染みというシュウマイ  中華おこげが登場
 冷しネギそば エビと青豆の炒めもの

7月Bへ 7月Dへ


「街」日誌の頁へ
inserted by FC2 system