オープンスペース街・日誌


2002年8月C

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8月14日(水) 「街」日誌
 メイ君のお母さんが来店。いつも野菜、ありがとうございます <(_ _)> 差入れのチーズ蒸しケーキ
有事法制、医療観察法案、反対「街」前ライブ
夕食はトンカツを10人で食べました 夕食後、レコーディング
 15日、社民党の集会から、新曲、「住民基本台帳ネットワーク」販売 (^o^)丿  明日から夏休みの洋平君、
軽く一杯、飲んで超ゴキゲン

通知書郵送でトラブル【住基ネット】  サンケイ新聞
 石川県の金沢市と押水町で、住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の住民票コード通知書を郵送する際、トラブルがあったことが13日までに分かった。
 金沢市では通知書のはがきが密封されず、住民票コード番号や氏名などが他人に見える状態で配られたなどとする苦情が20件寄せられた。苦情の中には世帯の誰かが開封した可能性のあるものも含まれるが、同市市民課は苦情を寄せた全世帯に、新しく番号を付け替えて再配布を始めた。

 金沢市は7日、市内の約17万2000世帯に通知書を郵送した。はがきは2枚の紙を中身が見えないように特殊なノリで接着して、住民が紙をはがしてコード番号などを見る仕組み。同課は接着力が弱かった可能性があるとみている。

 押水町は1世帯に誤って別の世帯分を含めた2世帯分を封書に入れて郵送した。そのため1世帯に通知が届かなかった。同町住民課は郵送の際、誤って1件、2世帯分を入れたとみている。通知が届かなかった世帯には新しく住民票コード番号を付け替えて町の職員が通知書を届けた。
亡くなったアフガニスタン難民を故国に送るためのカンパ
Y・Tさんについて
(経緯)
身上  1972年生まれ?、妻と子2人(うち長男は、1994年生まれ?)。シーア派。ケゼルバッシュ人。

迫害状況  ハラカット・イスラミに所属し、反タリバン活動に従事。主にカブール市でシーア派の住民の警護を担当していた。1996年3月、仲間とビラを貼っているところをタリバン兵士に見つかり、捕まり、西カブールで3ヶ月間の拘束を受けた。脱出に成功したが、タリバンが、カブール市内に侵攻したため、ただちにイランへ脱出。アフガニスタン脱出の際には、ブルカを被って女装した。その後、韓国に渡り、1999年3月、日本へ。タリバンから逮捕状が出ている。

1999年3月  貨物船で山口県下関市に深夜、上陸。通行人にドルを渡して円に交換して貰い、夜行バスで東京へ行き、UNHCRに飛び込んだ。

1999年4月1日  難民申請。その後、知り合いを頼って、大阪へ。Sさん、Xさんと同じ塗装工場で働く。その頃、Xさんと同居。一時期、東京で働いていたが、給与不払いなどがあり、大阪へ戻る。

1999年9月6日  一時不認定。

1999年9月13日  異議申し出。

2001年10月7日  米軍によるアフガン空爆開始。

2001年10月頃   カブールで、妻と2人の子が空爆により死亡。

2001年10月15日 院内集会に出席し、連日の空爆に不安が募る旨、一日も早く難民認定を求める旨、及び、「難民認定されれば、兄のいるイランに渡り、妻子の所在を探り、日本に呼び寄せたい」と述べていた(同月16日付毎日新聞)。

2001年11月    異議却下、同時に在特。

2002年1月    妻子を迎える準備のため、兄のいるイランへ行き、空爆で妻子が死亡したことを知らされる。

2002年3月 一時ルームメートで、親しかったXさんが異議却下になり収容。

2002年7月下旬  Xさんと西日本収容センターにて接見。その後、ひどく落ち込んでいた。

2002年8月9日  深夜(午後10時〜11時頃と推測される)、大阪市の自宅でネクタイで首をつって自殺。

(Aさんの話し)  2002年8月10日、大阪にて事情聴取。
 Tさんとは、3、4年前に知り合った。Tさんとは、1週間に1、2回電話で話しをし、1月に3、4回会っていた。  Tさんの精神状態は、妻子が亡くなったことを知ってから酷くなった。この頃から、しんどい、と言うようになった。Tさんに早くビザが出てれば、妻子は死ななかったと言っていた。
 Xさん初めとするアフガニスタン人たちが収容されていることをすごく心配していた。日本政府が難民を認めないことを怒っていた。アフガニスタン人は、助けを求めに来たのに捕まえた、と怒っていた。  Xさんと2週間くらい前に面会に行って、その後、悲しみに沈んでいた。

 Tさんと最後に会ったのは、1、2週間前と思う。妻子のこと、日本でアフガニスタン人が捕まっていること、仕事がないことなど、全てがしんどいと話していた。これらのことや、イランにいる兄の家族のことを毎日心配していた。最後に会ったときも、ビザが出るのが遅かったので妻子が死んだこと、日本が難民を捕まえることを怒っていた。

 2002年8月10日、午後6時頃、Tさんから電話があった。私が、レストランにいたため、うるさくて声が聞き取れず、電話をかけなおすといった。10時頃、かけ直した。何回もかけたが、電話は通じなかった。午前1時頃、知り合いから、自殺の話を聞いた。

Tさんの自殺後、電話で、イランにいるTさんの兄に電話で連絡した。初めの2回は本当のことを言えず、交通事故にあったと説明した。3回目の電話では、嘘をつきとおせず本当のことを話した。お兄さんは電話口で号泣した。

(Aさんの思い)
 妻子が亡くなったこと、アフガニスタン人が捕まったこと全てが彼を追い詰めた原因だと思う。日本の入管、政府、会社全てが彼の「荷物」だった。彼は、荷物をいっぱい抱えているので、走れなかった。

 彼は、優しくて、頭のいい人だった。悪いことはしない人だった。(彼の人柄を聞いた際、Aさんは、喋りながら涙ぐみ、目を赤くした)

(Tさんの遺書)  仮訳

神の名において
アフガニスタン人の皆様、兄弟の皆様、私の体が皆様を悲しませることを謝ります。
私は、本当に、この生活に疲れた。これ以上、この世界に残る必要はない。残ることに意味はない。私の体がどうなっても関係ない。
私が自殺したことは、家族には言わないで下さい。脳のショックで死んだと言って下さい。
人は皆いつか死ぬ。わかっているから、私は自殺する。私が皆様の悪口を言っていたり、悪いことをしていたとしたら、謝ります。ごめんなさい。

アフガニスタンの皆様へ

2002年8月9日  午後11時

誰かが私に教えたのではありません。私が、自分で自殺をしました。
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弁護士 大貫憲介  電話 03(5261)8291 Fax   03(5261)8303
〜 難民法を改正しましょう 〜
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

総務省前で通知書ビリッ 住基ネット反対グループ
総務省前で通知書ビリッ
住基ネット稼働に抗議し、住民票コードの通知はがきを破る市民団体のメンバー=12日午後、東京・霞が関の総務省前
 住民基本台帳ネットワークに反対する市民団体でつくる「住基ネット8月5日実施を許さない実行委員会」のメンバーら約四十人が十二日、東京・霞が関の総務省前で「わたしたちは番号じゃない」と叫びながら、自治体から送られてきた住民票コードの通知書を破り捨てた。

 その後、同省の芳山達郎・自治行政局長に面会し、住基ネットの稼働にあらためて抗議。破った通知書を入れたごみ袋を渡した。

 メンバーは「個人情報を国が管理するのは許せない」「国民総背番号制につながる」と訴えたが、芳山局長は「住基ネットは居住環境の確認だけに目的を限定しているし、国が管理しようとは毛頭考えてない」と説明した。
(了) 共同ニュース 08/12

 住基ネットに参加しないで 横浜で街頭キャンペーン

 住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)に反対している市民団体「やぶれっ!住基ネット市民行動」のメンバーらが十二日、市民選択制の導入を決めた横浜市役所前やJR横浜駅前で、住基ネットへの不参加を呼び掛ける街頭キャンペーンを実施した。

 メンバーらは、住民票コードをバーコードの鉄格子に見立て人間が閉じ込められた様子を描いたTシャツや、識別用の番号が付けられた牛の縫いぐるみを着用。「人間は牛とは違う」と訴えながらチラシを市民に配った。

 メンバーの一人、宮崎俊郎さん(41)は市役所前で街頭演説。「横浜市の選択制は画期的。しかし参加したくない市民の意思表示はほかの人に知られないよう、区役所の窓口に出向くのではなく郵送でできるようにするべきだ」と訴えた。
(了) 共同ニュース 08/12

8月13日(火) 「街」日誌
8・12 住民基本台帳ネットワーク反対、総務省抗議行動!
 午後1時、総務省前に約100人の市民が集まって抗議行動をしました
 報道もたくさん集まりました。  私は、破きます!
 住民基本台帳ネットワークを唄う「ヨッシーとジュゴンの家」
 サクちゃん、ヨッシー、アリちゃん、チューやん、よーこちゃんが参加

ヨッシーはこの後、夕方からの横浜行動にも参加しました。
2002年8月12日
 片山総務大臣様
             住基ネット8月5日実施を許さない実行委員会
                       連絡先:日本消費者連盟(担当:吉村)03−3711−7766
                      プラィバシー・アクション(担当:白石)
            090−2302−4908
                          やぶれっ!住基ネット市民行動(担当:宮崎)
                  m-toshio@mve.biglobe.ne.jp
抗議並びに申し入れ
 私たちは、番号で管理されること拒否します。
 私たちは、番号を返上します。
 私たちは、政府・総務省に番号返上希望者を住基ネットから削除するよう求めます。

 8月5日、政府・総務省は福島・矢祭町、東京・杉並区、国分寺市、横浜市などの不参加なかで住
基ネットを強行実施しました。これに対して全国で抗議の声がまこおこっています。
 約400万もの住民の不参加のもと強行された住基ネットは、実施当日からトラブルが続出し、システムの脆弱性、不安定性をさらけだしました。それだけではありません。7日には青森県、愛媛県、高知県など全国の複数の自治体で住基ネットシステムをインターネットと接続可能な庁内LANにつなげていたことが分かり、総務省はインターネットから不正侵入される可能性があるとしてそれらの市町村に住基ネットみ常時接続しないよう指示したことが判明しました。住基ネットシステムは強行実施と同時にその問題点を一挙に露呈したといっても過言ではありません。住基ネットに対する不信、批判は日に日に強まっています。

 私たちは、住基ネットを稼働させ、既成事実の積み上げで何としても国民総背番号制導入への道を切り開こうとしている政府・総務省のやり口に強く抗議します。

 住基ネットは、私たちが知らないうちに私たちの個人情報を集積し、効率的に「国民」を監視・管理していこうとするものにほかなりません。住基ネット・国民総背番号制は根源的に私たちの「自由」とは相容れないものです。

 統一番号をつけて人間を管理しようという発想そのものを私たちは絶対に受け入れることができま
せん。

 今からでも遅くありません。多くの市民の声に耳を傾け、住基ネットの稼働を中止してください。
 私たちは住基ネット8月5日強行実施に抗議します!
 私たちは11桁の国民総背番号はいりません!
 私たちは番号を返上します。返上希望者を住基ネットから直ちに削除せよ!
 総務省は住基ネットに対して不参加・離脱を表明している自治体に対して圧力をかけるな!

 私たちは住基ネットの廃止までたたかうことを宣言します。
12日の「街」、夏休み明け初日です


 夕 食
 「街」の二階の居間に空いた謎の
ミステリー・サークル
韓国の権さんからの差入れ。
のりと手作りキムチです
富田さんのお土産・鯨の刺身
国労闘争団の物品販売のシシャモ、
ソーセージと、メイ君の作った野菜
 サクちゃんの広島土産・ままかり ケイコさんの差入れ、アサリの佃煮

8月12日(月) 「街」日誌

8・11 砂川へ
 
「街」にある武蔵関は東京23区の西の端に位置している。西武線に乗ると20数分で砂川に行く。夏休み最後の闘いとして、「街」から9人が砂川に向かった。
米軍基地拡張を阻止した闘い

 砂川町米軍立川基地拡張反対同盟の副行動隊長として、砂川闘争を最先頭で闘いぬかれた宮岡政雄さんが亡くなられて今年で20年になります。
 砂川闘争は、1955年5月4日の米軍立川基地拡張の発表直後から、地元の農民や町民先頭に全国の労働者・学生・市民が大衆的実力闘争で闘い抜き、基地拡張を阻止して勝利した偉大な闘いです。さらには、「安保条約と行政協定に基づく米軍の駐留は憲法に違反する」という画期的な伊達判決(59年3月)を勝ち取り、日米安保体制と対決し、60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争を切り開いた歴史的な闘いでもあります。55〜56年の強制測量阻止闘争の中から生まれた「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句の精神は、反戦・反基地の砦=三里塚闘争にも引き継がれて、農地死守・実力闘争の先駆的闘いを切り開いてきました。宮岡政雄さんは、この砂川闘争を一貫して最先頭で闘い抜かれました。 あの「流血の砂川」から46年。
 砂川町基地拡張反対同盟の旗。 集会の最初に、「ゆーじ君」、住民基本台帳ネットワークを唄いました
 100万人署名の西山さん 宮岡キヌ子さん
 反戦自衛官・小多さん  厚木基地訴訟団  三里塚反対同盟・北原さん
葉山岳夫弁護士の記念講演 宮岡精神を引き継いで闘うぞー デモです
砂川闘争がなかったら、ここは米軍基地になっていました。「闘えば勝てる!」。そのことの動かぬ証拠、自主耕作地。
勝利集会をした神社 宮岡夫人と話す則子さん
 集会後、みんなで打ち上げをし交流を深めました「闘えば絶対に勝てる」という確信を得た集会でした。
この確信をもって、秋の有事法制、医療観察法案を廃案へ進みたい (^o^)丿

8月11日(日) 「街」日誌

バーベキュー大会 DE 女の館
上海から朱さん夫妻が来ました。7−8年ぶりの再会で、則子さん、ゆっくんと記念写真
バーベキュー奉行のヨッちゃんだが・・・広島組のお好み焼きと、ハネやんの作ってきた手羽先があり、
 朱さんの作る中国家庭華料理が出て・・・
 ヨッちゃん、食べる奉行に…
8・5 高校生による平和文化祭に参加して/ヨッシー
 この文化祭は5月12日に逝去された在日朝鮮人被爆者の朱碩先生が提案し指導され、1999年から毎夏に行われている。朱碩先生は「二度と子ども達に被爆体験・被爆し証言をさせてはならない」との思いで、1985年以来、語り部となり、8万7000人の修学旅行生に被爆体験を語ってこられた。

 朱碩先生の意志を受け継いだ広島の高校生たちが反戦・反核の思いをバンド演奏、朗読劇でアピールした。彼らは4月から準備をしてきて、この一週間はほとんど寝ないで作業してきたそうだ。コンサート終了後の打ち上げで「やっと今日から寝ることができる」と言っていた。

 三年生のツボネ君は「最初はバラバラだったけど、コンサートをやり終えて、みんなと一つになれた。協力することの素晴らしさを知った」と感激していた。看護士志望の女性は「歌を唄ってすぐに平和になるとは思わないけど、これからも唄い続ける」と語った。4人の女性が西さんと僕の所に来て、ジュゴンや沖縄のことを興味津々で聞いてくれた。一方ではチューやんの三線に合わせて「ゆーじ君」を合唱していた。高校生たちはみんな生き生きしていて真剣だった。

 
8・6ヒロシマ大行動には約3000人が集まった。
 栗原君子さんは「呉港から自衛隊の補給艦『とわだ』がインド洋へ出航している。ふたたびヒロシマが加害者になっている」と語った。教員の山今彰さんは「生徒と一緒に作った平和カレンダーを、校長がはがせと言い、拒否すると校長が暴力的にはがしてしまった」「また、平和学習のための教材の採用を認めないなど、教育労働者への攻撃がますます強まっている」と怒りを込めて語った。

 韓国の金銀植さんは「アジアの人達は、日本を危険な国だと考えている。福田官房長官の『核兵器を持つことが出来る』発言により、危機感が高まっている。アジアのために有事法制を作らせてはならない」と訴えた。

 中国・重慶市から5人の方が参加。日本軍は中国に対して毒ガス弾・細菌弾を使った、世界史に例のない残虐な空爆を行ったことを僕は知らなかった。王群生さんは「日中両国民が友好を深め、二度と戦争が起こらないようにしましょう」と涙を流しながら訴えた。

 デモは「ゆーじ君」を中心に、歌を唄いながらヒロシマ市内を練り歩いた。後半は高校生たちのグループに、「ゆーじ君を一緒に唄ってください」と頼まれ、西さんと晋くんと僕が、高校生の隊列に加わって「ゆーじ君」を大合唱しながら歩いた。デモ終了後も高校生たちは元気一杯で「ゆーじ君」のアンコール。彼らは飛び跳ねながら「ゆーじ君」を唄っていた。「僕たちも『ゆーじ君』を唄って流行らせるよ」と言ってくれた。

 
8・7 百万人署名の室本さんの案内で、平和公園内の「碑めぐり」に参加した。1945年広島は大空襲に備え、防火地帯を作るために建物を壊す作業を8月2日から行なっていた。中学生・女学生3万人が作業に動員されていて被爆にあった。広島は軍都で日清戦争の時、清国から巨額な賠償金を分捕って、それで鉄道を敷いたり工場を作ったという。戦争が激しくなると労働力が不足し中国や朝鮮からたくさんの人を強制連行してきて劣悪な環境で労働させ殺されたそうだ。被爆者約20万人のうち一割が中国・朝鮮人だった。

 平和公園に噴水が多くあるのは、被爆した人たちが「水をくれ!」と言って死んでいったからだそうだ。平和の灯は世界中から核兵器がすべて無くなった時に消される。一つ一つの碑に広島の人々の想いが込められている。

 今年もヒロシマに来て、たくさんのことを教えてもらいました。理不尽に殺された人たちの無念の想いを心に抱いて、これからも戦争に反対していきます!

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