オープンスペース街・日誌

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2002年2月C

2月23日(土) 「街」日誌

夕食  もの想うウララちゃん

2月22日(金) 「街」日誌

 21日の朝、中馬さんのおじいちゃんが病院で亡くなりました。今月12日、「街」に来た時には元気だったのに。
ご冥福をお祈りします。
 昼食は鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたし、
ポテトサラダ、若竹汁、デザートにのポンカン
の純和風
マリさんから野菜の差入れ m(__)m  久良木さんの「精神保健福祉法の
撤廃と精神障害者復権への道」のパンフ
の注文があったので作りました。
宮城康博さんと記念写真


 ジュゴン保護キャンペーンセンターの集会が
あったので、ウララちゃん、仁君、ヨッシー、洋平
君が行ってきました。
 夕食は、筍ご飯、卵豆腐、カニサラダに杏仁フルーツ豆腐

 クラブハウスめぐろの大賀さんから原稿依頼があったので、「街」の歴史を素描してみました。
   「街」から「ジュゴンの家」へ/ハネやん
1、「街」から
 1993年、共同作業所の職員時代に自主運営のリサイクルショップ「オープンスペース街(まち)」(以下、「街」)の設立に関わって以来、いろいろな場を作っては、壊してきた。
 
 地域で暮らしていた病院のデイケアのメンバーの自殺をキッカケに、94年に立ち上げた憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」は、携帯電話の広がりと共にその役目を終えた。
 
 95年に作った、食と楽しみの場・沖縄料理店「チャンプルー街」も、2001年6月に惜しまれつつ閉店した。
 
 ワープロにモデムを繋ぎながら始めたワープロ通信の時代、そしてインターネットの勃興期、「街」のホームページの中にある掲示板「心の広場」には、全国の若者たちの悩みが書き込まれ、それに応えるため24時間、携帯電話による相談を始めた。
 
 そして地方で孤立している若者たちが宿泊しながら学びあえる場・「ステイ街」が出来た。一時は、リサイクルショップ「街」の前にあるマンションを3戸借り、「関町ケアネットワーク」を含め多い時で10人以上の若者たちが宿泊していた。そして若者たちの内の何人かが自立していった。

 ある日、インターネットを通じて「街」のことを知り、引きこもり・通院・入院を繰り返していた息子を連れた母親がやってきた。Kさん(26才)を初めて見た時、思わず「高校生みたいだ」と思ったほど幼い顔をしていた。
 
 「今まで息子のためにいくらお金を使ったか知れない」 母親は定年を間近にひかえ、「もうこれ以上息子の面倒は見れない」「これが最後のチャンス」という悲壮な覚悟で「街」にやって来た。Kさんにも「もう、これまでの生活を続けたくない」というギリギリの覚悟があった。 Kさんは「街」で二週間の研修を終えた後、近くにアパートを借りて自立生活を始めた。御飯の炊き方も知らなかった彼だったが、まもなく「街」を卒業し、地域商店でアルバイトをはじめた。高校中退のKさんは近くにある定時制高校に通い、その後専門学校に進学した。そして今年初め、植木屋に就職が決まって、この街から巣立って行った。
 
 Kさんとは、何度も衝突して出て行ったり、否を詫びて戻ってきたり、本当に沢山のエピソードがあった。彼が自立できた理由は、Kさんの意地と素直さ、「生れ変わりたい」 という強い意志、それと「これが最後のチャンス」という母親の覚悟にあったのではないかと思う。
 
 その「ステイ街」も今は、混在型グループホーム「ハウス街」という一戸建ての家へと形を変えた。そこではかつての「ステイ街」の機能の他に、知的なハンディキャップを持った人たちの自立体験の場などになっている。
 
 リサイクルショップ「街」、憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」、沖縄料理店「チャンプルー街」、宿泊研修の場「ステイ街」という4つの場は、今、「街」と「ハウス街」の二つに整理・縮小した。それでも衣・食・住+憩い・相談を、保障しえているのではないかと思っている。
 
2、「ジュゴンの家」へ
 「街」が出来た後、「街」のリサイクルショップ方式は、小平「カジャ」、三ノ輪「ゆいまある」、沖縄・名護「ジュゴンの家」、そして那覇「はんたぴあ」へと引き継がれた。
 
 「久良木さんの『日本全国・出会いの旅』沖縄編で紹介されていた女性で、「てるしのワークセンター」とか家族会の仕事をされている山里さんを交え、久良木さんの思い出、沖縄の精神保健の現状、『街』の目指している方向性など、日が暮れるのも忘れ語り合いました。話している中で、リサイクルショップ『街』名護店構想が僕の中でムクムクと頭をもたげてきた。

 沖縄に来て半月。第1期・ジュゴンの家から第2期・ジュゴンの家へ。この半月の過程は、『僕たちが沖縄で出来ること、沖縄の人たちと連帯する道、その内容を本土に持ちかえり、再びそれをふくらませて沖縄にフィードバックすること』を模索し、思考錯誤する半月でした。

 僕たちができること。徹底的に『地域』にこだわること。『連帯・共闘』を声高に叫ぶことではなく、地域の人たちの生活に根ざした現実から出発すること。これが『街』の精神・スタイルだ。たとえどんなに小さくても、一歩一歩堅実な前進を積み重ねて行きたいという想いで一杯になった」(2000.8.31「ジュゴンの家」日誌) 


 2000年秋、4つの場の整理・縮小に伴って生れた力を、沖縄・名護のリサイクルショップ「ジュゴンの家」へ注ぎ込んだ。当初は、僕たち年寄組と、アリちゃん・ようこちゃんの若者組が、半月交代で「ジュゴンの家」を運営するという計画を立てていた。アリちゃんは、インターネットを通じて「街」と知り合った北海道出身の引きこもり・入院を体験した青年。その後、僕と共に沖縄料理店「チャンプルー街」のシェフとなり、生きづらさから自らを解放した。
 
 2000年10月15日の「ジュゴンの家」のオープンの手伝いに来ていた埼玉県の不登校の高校一年生・晋君は一年間、
「ジュゴンの家」の店長をつとめた後、昨秋から「ジュゴンの海の家」という移動式コミュニケーションの場を一人でスタートさせた。
 
「失敗は成功の素」
 若者たちの可能性を信じ、責任ある仕事につかせることが成長につながる、というやり方を僕たちは取ってきた。失敗したら一緒に考えて、そこから教訓を学びとればいい。
 
 昨年6月、不登校・通院・入院を経験している群馬県出身のUさん(23才)が、名護に移り住み、11月から「ジュゴンの家」の店長となった。昨年末には東京出身のSさん(24才)が沖縄に来た。彼は小学校の時から不登校を続け、通院体験者でもあるが、今では立派に「ジュゴンの家」の店長代理をこなしている。「ジュゴンの家」の若者は元気で信頼できる若者として、沖縄の人々に認められ、愛されている。生きづらかった過去を乗り越えて、沖縄のおじい・おばあたちの希望の星となっている。 
 
3、「病」、癒し、から、解放へ
 押し付けられた生きづらさ、それを癒すだけでいいだろうか? 僕たちは、「病」・癒しではなく、人が人として生きることのできる社会づくりをする中で、自らを解放したい!
 
 2月3日の名護市長選挙。宮城康博さんの勇気ある立候補に対して、「街」と「ジュゴンの家」は12名で応援に行った。何しろ彼は、僕たちのバンド「ヨッシー&ジュゴンの家」のベースマンなのだから。その間「街」を守ったのは、メンバー、ボランティアさん、・お客さんたちだった。
 
 選挙戦など一度もやったことのない僕らだったが、ギターを弾き、歌を唄いながら朝から晩まで市街地を練り歩いて沢山の市民に訴えた。現市長の権力と金を使った無法選挙に一歩もひるまず、心の病やハンディキャップを乗り越えて最後までやり抜いた。当選を勝ち取れなかったとはいえ、僕たちに敗北感などない。やり抜いた勝利感で一杯である。
 
 「街」「ジュゴンの家」は本当に名護市長選を闘えて良かった。そして、やり抜くことの中で一人一人の足りない部分も知ることができた。更なる飛躍のための宿題として、選挙後、点検し、ただちに新しい挑戦を始めている。
 
 「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」(イタリア・トリエステの教訓) 

2月21日(木) 「街」日誌

 冬物一掃100円セール。アッというまに衣類の山が消えて行きました。  3時のお茶
 今日も沖縄カンパを訴えるウララちゃん。  昼はハネやん汁、イワシと豆腐のネギソース

連続 学習会
 行動力はすごいが、理論が弱点と言われている「街」。それを克服しようと、今回は、自分がやりたい報告・意見書の
リクエストをとって、ミーティングで連続学習会をすることにした。

 初日は、サギリちゃんが「大阪精神障害者連絡会などが集め厚生労働省に提出した署名の要請文」を読んだ。
20日は、富田さんが「重大な犯罪を犯した精神障害者に対する法律案」について(弁護士 八尋光秀)をガッチリ予習
して来て報告してくれた。「我国の『精神障害者』総数は220万人ないし240万人とされている。家族単位でいえば、10家族に1家族はこの『精神障害者』とともに暮らしていることになり、親類、縁者、知人を加えると、ほとんどの人が身近にこの障害をもつことになる」ではじまる「2、現状の素描」は具体的で分かりやすかった。 

お元気ですか。
 遅れましたが、名護では大変お世話になりました。市長選は残念な結果となりましたが、大きな圧力の中で今回、康博さんを支持した多くの名護市民に、むしろ敬意を表したい気持ちです。また、「ジュゴンの家」、「街」のみなさんの奮闘に拍手を送りたいと、あらためて思います。

 さて、17日の「部落解放研究集会」にヨッシーが参加してくれたこと、ありがとうございました。集会では会場から、ということでヨッシーが発言し、狭山の紙芝居の上演をとおして、ヨッシーが考えたことを率直に話してもらいました。たいへんよかったです。
 
   これからも、よろしくお願いいたします。 

2月20日(水) 「街」日誌

 20−22日、新春恒例の「衣類全品100円セール」があります。なんでも100円でーす。
 ラックを組み立てる新カメさん  「街」ができた頃からのお客さん・大久保さん。
今は熊本に住んでいるが、飛行機チケットも安く
なったので、東京も近い。「昔、人間国宝の人の
作品を『街』で100円で買ったとか (T_T)」
 自分で書いたジュゴンの絵のカンパ箱を
持って訴えるウララちゃん
 仁君もアピールします
 青木さんにいただいた無洗米 m(__)m
先日もお客さんから米の寄付があったので
米を買わなくて済んでいます。
 その分、夕食が豪華になりました。
刺身の盛り合わせを食べる。


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