オープンスペース街・日誌




2001年12月D
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12月24日(月) 「街」日誌12/23
 狭山事件、現地調査があったので、「街」からはチューやん、ヨッシー、ミヤちゃん、ハネやん&則子さんの5人が参加しました。
 赤線で囲った辺りが「真実のコース」。青線の「自白デッチ上げコース」を歩いた。
デッチあげられた「自白」の物語の時間的矛盾について

1、狭山事件において、「犯行時間」を中心とした時間軸をめぐる検討は、あまりされてきませんでした。しかし、その中にあらわれる時間的矛盾が、じつは取り調べ過程の警察・検察だけでなく、一審、二蕃をつらぬく、差別的予断と偏見がうみだした、「部落民だから犯人だ」論の重要な一環となっているのです。

 とりわけ石川さんが、川越分室の第四房のなかでの拷問的取り調べのなかでおしつけられた、そして警察・検察一体となってつくりあげた、荒唐無稽な物語を、あらためて整理し、検討し、同時に、二蕃裁判長・寺尾がいかに事実をねじまげ、矛盾を石川さんにおしつけ、石川さんを犯人に仕立てていったかをあきらかにしていきたいとおもいます。

2、現地調査を行なうときには、まず石川さんのアリバイのコース(真実のコース)を確認したうえで、原判決でいうところの「自白」したとされるコースを歩くのですが、まず誰でも気付くのは、所要時間のでたらめさということです。ここでは「供述」と原判決と実測とを対比してみます。
 狭山市駅東口に集合。 最初に、事件の起きた5月1日の石川一雄さんが実際に歩いた
「真実のコース」をフィールドワークする。
西口の踏切横にある庚申(こうしん)塚。当時は、ここには
踏切はなかった。庚申塚の東西が被差別部落との境界と
されていたようだ。
 線路も、部落と分けたのか、不自然にカーブしている。
 
 この日、仕事をサボってしまった石川さんは、父親に怒られる
のがイヤで、家のある東口(当時は、西口しかなかった)ではなく 
駅の西側を歩いていった。中央図書館(旧、狭山市役所)。
 川越高校入間川分校(現、狭山準看語学校)。
 中田善枝さんはここに通っていた。
 12月だけど、温かい日で、ユックリと歩く参加者
 石川さんは、この店で2時間ほどパチンコをした。現在は廃業。
 現地調査コースの所々に、こうした立て札がある。 家に戻ると仕事をサボったのがばれるので、石川さんはの場所で石川さんは休憩していたが、4:20分に強い雨が降ってきたので、駅西口にある荷小屋に移動。
 「4:20分に強い雨が降ってきた」というのは近くにある米軍ジョンソン基地(現、自衛隊入間基地)の気象記録でハッキリしている。
 
  
 荷小屋は現在なくなっている。荷小屋にいて、午後5時過ぎにジョンソン基地からブッシュ大統領のエサになる残飯を運んできた石田養豚場のトラックを目撃。普段はトラックは、この時間にはジョンソン基地に向かうはずだが、メーデーや祭りがあり運搬が早く行われた。そうした5月1日にしか見れない光景に石川さんは出合う。その後で石川さんは帰宅する。
 以下、デッチ上げコース
 石川さんの「供述」によれば、
 5月1日はこの前はなしたとおり朝7時半頃弁当を持って家を出て西武園 の山の中に行き、何もすることもなくただそこで弁当だけ食べて出て来まし た。それから午後一時かこ時頃に所沢をでて 入間川に帰って来たので入間 川についたのは午後1時半か2時半頃だと思います。
                    6月29日付 員 青木一夫
となっています。入間川についた時間1時半〜2時半、当時の運行状況をみても所沢から入間川まで電車で14四分、待時間を考えても1時か2時に所沢をでたら2時半には入間川につくことになります。ところが、検察や原判決では正確な時間の判断をさけているのです。

(一審)原判決によれば、 
 ・‥同日午後三時頃、西武鉄道新宿線入間川駅(現、狭山市駅)に帰着し、同駅前の店で 買った牛乳2本を飲みながら、あてもなく、同日祭礼のあった右入間川駅付 近の荒神様の方へ向かって歩き、同所を通り過ぎて通称加佐志街道を狭山市人間川1774番地高橋一男方通称「山の学校」付近まで来た際、同日 午後三時五十分頃、同市入間川千七百五十番地先の右加佐志街道のエックス型十字路において、自転車に乗って通りかかった下校途上の埼玉県立川越高等学校入間川分校別科一年生中田善枝(当時十六歳)に出会うや、・・‥
となっています。
 つまり、出会いの時間、3時50分に規定されて1時半や2時半では困ってしまい、あいまいに3時頃としたのですが、かりに3時としても、所沢駅から入間川駅まで15分くらいの距離を1時間半かけて電車が走ることにもなり、あまりにも時間がでたらめで不自然となります。
 さらには入間川駅から出会い地点まで980メートルです。時間にして12分から、踏み切り待ちをしても14分です。ましてや当日はお祭りがあり、人出がありました。当然、石川さんが通ったとすれば、まして12分の距離を50分(石川さんの「供述」だと1時間50分)かけてゆっくり、歩けば、いやがおうでも人目につかざるをえない。
祭りが開かれていた荒神様
 しかし
参拝人のほとんどはカイコをやる農家のおかみさんです。三○代以下の男はほとんどきません。社殿にすわっていた私たちは駅の方向から三々五々やって来る人たちをみて、『あそこにまた来たな』などといって参拝人を待っていたような状況です。
     (お祭りの世話人である野口清之丞さんの証言)
 という状況のなかで、だれも石川さんを見ていないのです。
 この祭りにはまた、堀兼地区からの参拝人もおり、善枝さんの顔見知りもいたにもかかわらず、「駅の方から来た」はずの善枝さんも目撃されてないのです。善枝さんについていえば、3時40分ごろに入間川駅東方にある第一ガードの下で中島いくさんという女性に、誰かと待ち合わせをしているのを目撃されているのであり、またそれ以前の3時前後に中学校の時の担任の相沢先生に第二ガー
ドの下で、だれかを待っているところを目撃されています.つまりこの時間帯には荒神様の付近はおろか出会い地点にもいないということです。
 その時空間にいないもの同士が、いったいどうやって出会うというのでしょうか。
「出会い地点」とされる、エックス型十字路
3、次に、出会い地点から殺害現場までですが、頭に置いておいてほしいのは当日の気象状況は「午後2時10分から4時20分まで弱い雨が降ったりやんだりし、4時20分から本降りになった」ということです。
 出会い地点から「殺害現場」とされる雑木林までの間には一本の見晴らしのよい農道があります。二人はここを歩いていったとされています。しかし、この時間帯には横山さんと横田さんというこ人のひとが農作業をやっていました。この人たちも当然、石川さんと善枝さんをみていないのです。

 (高裁)寺尾判決ではこれについて、以下のように、でたらめきわまる時間のペテンを使っているのです。
  まず、横山ハルさんの、
その日は昼食後、長男とこ人で草かきをしました。ぽつぱつ雨がふってきましたが仕事をつづけ、あまりたくさん降ってきたので車でかえりました。帰ってすぐ夕食という時間ではありませんでした。

 という供述を寺尾は「雨がふってきたのでまもなく帰宅した」と改ざんして帰宅したのは雨が降ってまもない2時すぎだというふうにしています。しかし、「あまりたくさん降ってきた」のは、4時20分からの本降りということは当日のジョンソン基地などの気象記録でも明白です。      

 また、横田さんについては、        
 その日親子三人で畑へでて作業をはじめてまもなく雨がぽっぽっふっていました。三時間ほどかぼちゃ畑で仕事をしてから東の畑へ移って同じ仕事をしました。家に帰ったのは五時ごろでした。

 という供述をかってにゆがめて、横田さんが仕事にでかけたのは1時ごろだとデッチあげ、3時ごろには別の畑にいたといっている。しかし、雨がぽつぼつふっていたのは2時10分からであり、したがって犯人さんがとおったとされる時間帯は、横田さんはまだこの(農道横の)畑で作業していたのです。

 このようにして、二人の証人の供述を勝手につくりなおし、犯人を見なかったのは、犯人さんがここを通らなかったのではなくて、証人がその時間帯にその場所にいなかったことにしてしまったのです。ウソをついているのは歴史を真実をゆがめているのはいったいだれなのか。寺尾(裁判長)本人であることは明白です。

4、殺害現場での空白時間をどうとりつくろうというのか。
 殺害時間は雨が本降りになった4時20分ごろとされています。そして しばらく思案してから、雨のなか芋穴まで死体を運び、そのままいったん放置し雑木林の松の木にもどって、脅迫状を、どしゃぶりの雨のなかで万年筆をつかって訂正し、薄暗くなるまで待って逆さ吊りのための縄を探しにいく、というのですが、その時間は、石川さんの供述によると、
時間ははっきりわかりませLがもう簿暗くなっていましたから午後6時半頃と思います。
                      六月ニ九日付 員 青木一夫
 とあります。

 原判決の
前記のとおり、中田善枝を殺害した後、同女の死体を一時付近の芋穴に隠し、後でこれを農道にうめて、前記犯罪を隠蔽しようと考え‥・・
 というのであれば、むしろ、暗くなる前こそ隠す必要があるわけであり、また、明るいうちにわざわざ芋穴まで運ぶ必要もないのですが。
 しかし、4時20分に殺害し、6時30分までの時間はどうでしょうか。2時間10分もあります。30分は思案の時間としても残りの1時間40分かけて、200メートルの距離を、死体を両腕でさしあげた格好で、薄暗い雑木林からあかるい畑の方に出て、運んでいったとでもいうのでしょうか。「死体を隠し、犯罪を隠蔽しようと考え」る、原判決とまったく矛盾するではないですか。

 これこそ、「犯人」が「死体」をもって「俺が犯人だ」とまわりに見せびらかすのと同じことではありませんか。寺尾は、裁判所は、こんな荒唐無稽な作り事がいったい世の中に通用するとでも思っているのでしょうか。
 このような論理を平気でつかって恥じない裁判官とはいったいなんなのでしょうか。
 当時の殺害現場とされた雑木林は分譲地になり、家や駐車場になっていた
5、6時30分から、荒縄を探しはじめ、芋穴に死体を逆さ吊りにし、それから善枝さんの自転車に乗ったり、歩いたりしながら、また途中でカバン、教科書、ゴム紐などをすてながら、7時過ぎに内田幸吉宅に寄り、中田家に7時30分に脅迫状を届けたとされていますが、殺害現場から中田家まで約8・2キロメートル(註 上の地図の右真ん中)あります。しかも現在とちがっで未舗装の道路がつづいているのです。わずか1時間の間にこれだけのことができると思いますか。

 6時から動きはじめたとして、1時間半あったとしても無理です。まさに人間業ではありません。不可能です。
 現実に、デッチあげのコースをただ自転車でいくだけで精一杯です。ゴムひもをすて、カバンをうめ、教科書をうめるだけで、すくなくとも30分はゆうにかかるのです。

6、内田幸吉証言について
 原審では「五月一日午後七時半ころ、『今晩わ』という声がしたので土間に降りて外灯を付け、戸口をあけて辛『今晩わ』と言った。…雨に滞れて自転車のハンドルに手をかけて・・・・・その男は『中田栄作さんのうちはどこですか』と尋ねた」と証言しました。内田証言の差別性については別の機会に論じたいと思いますが、今回は時間にこだわって見てみれば、それ自身矛盾だらけだとわかります。

 7時半と言えば、脅迫状が差し込まれた時間です。その直前に中田健治が帰宅しています。内田幸吉の証言は、「七時過ぎ」であったり「七時半前後」であったり、二転三転しておりそれ自身の信頼性はない(差別的な偽証である)が、原審での証言通りだとすると、7時半直前の同じ時空間に中田健治と石川さんと内田幸吉が同時に存在したことになります。

 当時の堀兼の様子は、写真と伝聞から考察してみても、暗い夜道であったということがわかります。土砂降りの雨の中、自転車に乗った石川さんが、内田幸吉宅を訪ねた。内田幸吉は外灯をつけて対応し、犯人は、「外灯に照らされて顔がはっきりわかるほど浮かぴ上がった、雨に濡れて自転車のハンドルを手にして立っていた男」として登場します。同じ時間、中田健治は入曽駅の方角から自宅に車に乗って帰ってくる。そのヘッドライトに前記の姿の石川さんが、内田の門前、又は内田宅から中田宅へむかって、(そうするとヘッドライトに向かって)あるいてくる姿が、くっきりとうかびあがるということになります。

 路上に人影はありません0あるのは中田健治ののった自動車と自転車にのってヘッドライトにむかって走ってくる、あるいは、ハンドルを手にして内田宅の門前の外灯の下に立っている石川さんのみというシーンです。

 原審の証言によって表現されているのは、このようなあるはずのない、石川さんと中田健治の出合という、劇的なシーンなのです。ところが、中田健治の証言
にも、内田幸吉の証言にも、当然石川さんの証言にもこのことはあらわれてきてはいません。つまり、石川さんにかかわる目撃者が一人もいないことに危機感をもった権力が、まず、脅迫状をとどけたということをでっちあげるために内田をして偽証せしめたと言うことです。
7、中田健治の証言の矛盾について
 「脅迫状発見は7時40分、柱時計で確認した」と中田健治は証言しています。
証言どおりとすると、7時半に内田宅にあらわれた犯人は、同時刻までに120メートルはなれた中田宅の敷地内に登場し、健治が自動車をとめると同時に横に自転車を止め、そのさい雨でやわらかくなっている地面に、自転車のタイヤのあとも自分の足跡もつけずに脅迫状を戸のすき間に差し入れ、たちさったと言うことになります。

 さらに脅迫状を発見した健治は、自宅から2キロはなれた駐在所に7時50分に届け出ることになりまず。これは駐在所の田島保巡査が記録しているため、ごまかすことはできません。そうすると遅くとも7時45分には中田父子は、車に乗り込み、発車していなくてはなりません。脅迫状発見から出発までわずか5分です。この5分間にいったいどんな動きをしたのでしょうか。
                       F
 まずなによりも自分の妹が(娘が)誘拐され、金を出さないと命がないと書かれてある、しかもその前から帰宅が遅くて不安で、探しても行方がわからない、そういう状況のところへ脅迫状が届けられた。当然、不安が頂点に達し、ショックを受け、あるいはしばらく呆然自失の状態におちいるのではないでしょうか。

 ところが、このわずか5分のあいだに
中田家では家族会議をやり、届け出ることにして、
前の親類の家にいって事情を説明し、
車をとめてある納屋にコードをひっぱって電灯をもっていき自転車があるのを確認し、
雨に濡れた状況や、サドルの下にさがっているひもが濡れていないことや、ビニールの風呂敷がなかったことを確認し、
「これに犯人が乗ってきた」と断定して、
だれも手をふれないようにと指示し
父子2人して車にのりこんだと言うのです。

 こんな荒唐無稽な話を、いったい誰が信じるというのでしょうか。しかし現実に一審、二蕃で採用されていると言うことは、部落民を犯人とするためには、どんなでたらめな話でも、「その信用性に疑いをさしはさむ余地はない」(寺尾)と、部落民の真実の叫びより、悪意ある差別者のデタラメを「信用できる」とするのが、司法権力、裁判所の「中立公正」の中身なのです。

8、7時30分に脅迫状を届けたあと、石川さんは石田養豚でスコップを盗み、芋穴にもどったとされています。時間は9時頃です。その行程は約4・5キロメートル。ゆっくり歩く距離です。問題はそのあとです。
私はシャベルを持って死んだ善枝ちゃんをかくしておいた穴そらのところに帰って来ました。それから前に話してありますがすそそばヘシャベルを使って長さニメートルそらい横が一メートルくらい深さが私の腰くらいの大きささの四角っぽい穴を掘るのに大体30分くらいかかりました。
                 六月ニ五日付 員 青木一夫
私が五月一日の晩に善桂ちゃんを埋めて、家に帰った時は、九時一寸過ぎ頃で、15分位して、笑えば天国というテレビが始まりました。
                  六月ニ七日付 検事 原正
 とあります。「笑えば天国」という番組は9時45分からはじまったそうです。とすれば、その15分前に帰宅しているわけですから9時30分帰宅です。
 ということは、9時からわずか30分のあいだに、雨のなか大きな穴をほり、芋欠から死体をひっぱり出し、穴まで運び、埋めて土をかけてかため、残土を処理し、スコップを処理しいえに帰ってくるということである。死体発見現場から自宅までは約6分かかる。正味24分でこれらすべてをやったというのである。

 石川さんは穴を掘るのに30分かかったと供述させられている。しかし、天気のよい日でも30分でこれだけの穴を掘るのは不可能です。ましてや雨天ではなおさらです。穴は掘っているそばからどろどろと沼のようになりくずれていってしまうからです。時間の問題だけでなく穴を掘ることすらできないのです。なによりも善枝さんの死体に、雨降りの、どろんこ状態の穴にうめられた証拠が、一つもないのです。

 狭山事件での物証は、すべてデッチあげのニセもので、唯一の本物が、善枝さんの死体なのですが、その死体が何よりも石川さんの無実を語っているといっても過言ではありません。

9、善枝さんの死体が語る死亡時間
 昨年12月に弁護団があらたに追加意見書を高裁・高木あてに出しました。そこでは「殺害方法等について」と「被害者の死体の死後経過時間を再考する」として、「法医学書」をもとにして、五十嵐鑑定のでたらめさ、石山鑑定の非科学的な鑑定のパクロを行っていますが、ここでは「死後経過時間」について見てみます。

 8、の最後にのべたように、雨の土砂降りのときに殺害された形跡もなく、またそのときに埋められたのでもないことは歴然なのですが、死体の検分からもそうだということをあらためて認識しなくてはなりません。

 追加意見書(1997・12・28)では、まず五十嵐鑑定が原判決にしたがえば、死後75時間を経過してなされたこと、を冒頭にあげ、「五十嵐鑑定書記載の死後経過時間と原判決の被害者死亡時刻との矛盾」を述べています。

 詳論については後日まとめる予定ですが、注目すべきは鑑定書の「解剖検査記録」と死亡経過時間推定に大きな矛盾があると言うことです。つまり、デッチあげの犯行時間にあわせるために、法医学の常識を無視して、あらかじめの結論を「検査記録」に経ぎ木したということです。

 五十嵐の「解剖検査記録」にしたがえば、胃の内容物からは「遅くとも食後2時間経過後の死亡」と推定することができ、善枝さんは12時5分までにたべたのだから、遅くとも午後2時には殺害されていることになる。しかし実際は3時半までは目撃者がいるのであり、結論は、それ以後に犯人とともに昼食とは別の食事をしたということです。

 また、「角膜の混濁」の状況も「角膜は微混濁を呈するも、径約0・7ミリに開大せる歪径瞳孔を容易に透過せしむ。」とあり、これはどの法医学書によっても、また法医学の常識からも死後48時間前後と断定できるのです。つまり、死体の解剖は4日の午後7時から9時にかけてであるから、そこから逆算すれば、死亡時刻は2日の午後7時ということになります。どんなに余裕をとっても1日の午後4時20分ということはあり得ないのです。

 ここから、最大限譲歩したとしても、土砂降り雨のふっている1日の午後4時20分には犯行は行われていない。つまり、「石川さん=犯人」物語はここからもそのでたらめさが証明されるのです。
 雑木林  石川さんの家があった所です。

12月23日(日) 「街」日誌12/22
☆今日は、ミヤちゃん、仁君、ガンちゃん、ハネやん&則子さん、
 僕、そして大学生のミズキさんがボランティアとして参加した。
★昨日に引き続き、仁君がカレンダー隊長をやった。ミズキさん
 は衣類の整理やお茶当番をしてくれた。
☆午後からチーちゃんがボランティアをしてくれた。チーちゃんは
 看護婦や介護の仕事、家政婦をやっていた頃の話をしてくれた。
★マーちゃんから、衣類の寄付が届いた。電話も来た。
☆ミーティングでは「ジュゴンの家」日誌を読んだ。日々刻々と変わる
 沖縄の上京の仲で、「ジュゴンの家」の若者たちは、一日一日を
 大切に生きているなぁと思った。
★ミズキさんの感想「けっこう仕事があって大変なんだなぁ」
 仁君「店をよくするために仕事ができてよかった」
 チーちゃん「今年もお世話になりました。ここに来ると心が癒される。
 私は大変な時代を生きてきたけど、本当は今も情勢は変わらないと
 思う。出来るか・出来ないかを考える前に、チャレンジして欲しい」
 チーちゃんは戦中・戦後を生き抜いて来た人だから、今がヤバイ
  状況だということが強烈に実感できるのだろう。「今の若い人たちは
 可哀想だ。10年後のことを考えると恐ろしい」といった。  
  チーちゃんが着て僕達に話してくれるのは有難い、そして「街」に来て
 喜んでくれて嬉しい。
  
 中国の留学生李さん。  夕食は、石狩プラス牡蠣鍋をハネやんが作った。

兄弟、もし嫌じゃなければ・・・
少しながいのですが,
9月のニューヨークのテロを直接体験した一人のイスラム青年の感動的な手記の訳を別のMLから手にいれたので,紹介します。
元テキスト>http://lovemorgue.s5.xrea.com/trans/brother.html

兄弟、もし嫌じゃなければ・・・

Author: tim330i (---.ne.mediaone.net)
Date: Sep-14-2001 01:43:45 AM

これはマークとジョーダンそれに私の親しい友達から。

ぼくの名前はウスマン・ファーマン、今年の五月にベントレー大経済学部を卒業した者です。21歳で、十月には22になります。ぼくはパキスタン出身で、イスラム教徒です。2001年の九月十日まで、ワールドトレードセンターの7番ビルで働いていました。ちょうど反対側にある1番ビルで働いている知り合いや友達もいます。何人かは逃げ出すことができて、何人かはまだ行方が分かっていません。ぼくはこの恐ろしい事件をなんとか生き延びました。

ぼくらがまだ一緒にやっていけるように願って、あのひどい日に、いまだに規模さえ分かっていない悲劇の最中に、ぼくが経験したことをみなさんと分かち合いたいと思っています。ぼくが知ったのは、ぼくたちが誰であっても、どこの出身でも、ぼくらはただ互いに受け入れ合っているんだということです。

ぼくは毎朝ニュージャージーから電車で通勤しています。というか、そうしていました。今でも何が起きたのか信じられないでいます。あの朝、ぼくは目を覚ましてベッドから抜け出し、電車に乗り遅れるんじゃないかとやきもきしながら、ぎりぎりの一本に乗り込みました。なんとかして仕事に間に合うようにしなきゃとひたすら自分に言い聞かせていたのを覚えています。どうにか7時48分の電車に乗って、ホーボーケンに8時20分に到着しまし
た。
着いてみると何か食べようと思い立ちましたが、我慢してPATH(訳注:Port Authority の経営する New Jersey 州と Manhattan 間の通勤列車線)に乗ってワールドトレードセンターに向かいました。ワールドトレードに着いたのは8時40分でした。7番ビルのロビーに入ったのが8時45分、そのとき最初の飛行機が激突しました。

もしもっと後の電車に乗っていたり、何か食べたりしていたら、5分遅れて横断歩道を歩いていたかもしれません。もしそうだったら、炎や破片の雨に降られて、ここでこうしてみなさんに語りかけていることもなかったでしょう。死んでいたかもしれません。

ロビーにいて最初の爆発音を聞きましたが、よく分かりませんでした。外では工事も行われていましたし、足場が落ちたのかなと思ったのです。エレベーターに乗って27階のオフィスに昇りました。中に入ると、そこは空っぽでした。警報も鳴っておらず、スプリンクラーも作動せず、何もなかったのです。ぼくたちのオフィス、あるいは働いていたオフィスは、7番ビルの南側にありました。ぼくたちは北ビルと南ビルのすぐそばに、文字通り石を投げたら北ビルに届くくらいのことろにいたのです。

携帯電話が鳴って母と話し、生きているよと伝えると、まさにそのとき二番目のビルの爆発が起こるのが見えました。ボストンにいる友達に電話して、彼女を起こしてみんなにぼくは無事で、今から逃げると伝えてくれと頼みました。

もう一度下を見下ろし、いつも昼を食べていた広場と噴水を見ると、煙を上げる残骸で埋まっていました。どうやらぼくがこのビルに残った最後の一人らしく、エレベーターでぼくが昇って来るときには同僚はみんな階段で下に降りていた
ようです。避難するときには混乱はありませんでした。みんな落ち着いて互いに助け合っていたのです。妊娠中の女性が階段で下まで運ばれていました。

ぼくが見たもっとひどい詳細については割愛します。誰もそんな光景を目にする義務はないし、描写するのは人間の品位を越えています。これからの一生ずっとぼくにつきまとうだろうし、ぼくの心はあの事件で命を失った人たちみんなと、事件の痛ましい記憶と共に生き延びた人たちに向けられているのです。ぼくの知り合いがビルから逃げられたのは、千人もの人たちが煙から逃れる道を見つけようと人の鎖を作ったからに過ぎません。あの日はみんながヒーローでした。

ぼくたちは7番ビルの北側に避難しました。建物からはまだ1ブロックから離れていません。警備の人たちは北に行け、振り返るなと言っていました。5ブロックほど進んで振り返って見てみました。何千人もの人たちが驚愕しながら見つめる中、最初のビルが倒壊しました。そんなことが起きるなんて誰も信じられませんでしたし、今でも超現実的で想像も出来ません。次に覚えているのは、五階くらいの高さのガラスと瓦礫の真っ黒な雲がこちらに転がるように向かってきたことです。ぼくは振り返って大急ぎで逃げました。昨日までどうして自分がこんなに悲しんでいるのか分からなかったけれど、それは逃げる途中で転んでしまったからです。
次に起きたことが、ぼくにここに来てこのスピーチをさせたのです。

ぼくは仰向けに転がって、この巨大な雲が近付いてくるのを見ていました。600フィートくらい離れていたでしょうか、もう辺りはすっかり暗くなっていました。ぼくは普段から首にアラビア語で安全のためのお祈りが書かれたペンダントをかけています。ちょうど十字架のようなものです。するとハシディズム派のユダヤ人が近付いてきて、ペンダントを手に取って見たのです。

彼はアラビア語で書かれた言葉を声に出して読み上げました。次に起きたことは忘れません。強いブルックリン訛で彼は言いました。「兄弟、嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」
彼はぼくが起きるのを手伝って、それからぼくたちはまるで永遠に思えるほどの時間をずっと振り返らずに走り続けました。まさか彼のような人がぼくを助けてくれるとは思いませんでした。彼がいなければ、ぼくはきっとガラスと瓦礫の雲に飲まれていたでしょう。

ようやく20ブロックほど離れたところでぼくは立ち止まり、2番目のタワーが崩落するのをぞっとしながら眺めました。タワーの下の通りに逃げ出した人がいるんだと気付いたときには恐怖を覚えました。上にも書いたように、あのビルが崩落するなんて誰も思わなかったのです。ショックと信じられないという気持ちのまま、ぼくたちはミッドタウンまで徒歩で行きました。3番街と47番通りの交差点にある姉のオフィスまで3時間かかりました。いくつかの通りは完全に見捨てられ、完全に静かで、車もなく、何もなく・・・ただ遠くでむせぶようにサイレンが鳴るだけでした。ぼくはなんとか家に電話して大丈夫だと伝え、ぼくの安否を気遣う同僚と友達に連絡を取りました。

ぼくたちはなんとかニュージャージーに車で行くことができました。ジョージ・ワシントン橋を渡るときに振り返ると、タワーは見えませんでした。あれは現実のことだったのです。

世界があの悲劇からまき直しを図るにつれ、道端にいる人たちも激しく非難するようになりました。ぼくの家からそう遠くない所で、あるパキスタン人の女性が身の回りの品々を車に積もうと駐車場を横切っていたところを故意に車で轢かれました。彼女の唯一の過ち(?)は頭を覆ってぼくの故郷の伝統的な衣装を身に纏っていたことだけなのです。コミュニティにいる家族の無事が心配になります。ぼくの姉は今では怖がって通勤に地下鉄に乗れません。ぼくの8歳になる妹の学校はロックダウンされて武装した警官に見張られています。

暴力は暴力しか生まず、恐怖と憎しみにかられて互いを襲撃し合っても、この惨劇を引き起こした名無しの卑怯者と少しも違わないのです。もしぼくを助け起こしてくれたあの男性がいなければ、今頃ぼくはきっと病院にいたかもしれないし、そうじゃなければ死んでいたかもしれません。助けはいちばん期待していなかったところからやって来て、その結果、ぼくたちは人種や宗教、民族に関係なく、みんなここに一緒にいるんだということをただ教えてくれたのです。これこそがこの国の基礎になっている主義というものです。

どうか少しの間でも、あなたの周りの人たちを見てください。
友だちや見知らぬ人たち、この危機の時にあれば、誰でも助けが必要なときには身近にいる人に助けてもらいたいはずです。ぼくを助けてくれたのは普段は話し掛けてさえくれないだろうと思っていた人でした。
今こそニューヨークやワシントンにいる人たちのために何が出来るか自分の胸に聞いてみてください。献血をするのもいいですし、衣服や食べ物、お金を送るのもいいでしょう。亡くなった消防士たちや警察官、救急隊の人たちの家族を
助けるための基金も設立されています。いちばん役に立たないのは、ぼくたちが互いに攻撃し合うことで、それこそが連中の思うつぼなのであって、ここにいる人たちは誰もそんなことは望んではいないのです。

ぼくの名前はウスマン・ファーマン、ベントレー大経済学部を去年の五月に卒業しました。21歳で、十月には22になります。ぼくはパキスタン人でイスラム教徒であり、そしてぼくもまたこのひどい悲劇の犠牲者なのです。
今度みなさんが怒りを覚え、自分なりに仕返ししてやろうと思ったときには、どうかこの言葉を思い出してください。
「兄弟、嫌じゃなかったら、  ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」

Post Has Been Edited By Author - Sep-14-2001 14:07:12 PM


12月22日(土) 「街」日誌12/21

←昼食係はチューやん



↑ そぼろ丼と揚げだし豆腐
 粗大ゴミを廃棄業者に処分してもらいましたが・・・少し積み残しが出てしまった
クラブハウス目黒の西川さんが見学・取材に来ました。
ライブ用に店内の飾りつけ  知念さんのライブの始まり。沖縄のスライドの説明
 浪漫主義の高木さん。デジカメを「ジュゴンの家」に寄付
してくれるとか (^o^)丿
 チューやんの作ったケーキ
 ライブの後の楽しい飲み会。一時近くまで続きました。

12月21日(金) 「街」日誌12/20
〜オキナワン・パラダイスの光と憂鬱〜
本日 知念 良吉 ライブ
フォーク・ロック・ブルースそして島唄
ジャンルを越え
ソウルチャンプルーの世界へ
☆NHKテレビ小説「ちゅらさん」では表現されなかった折の日常の光と影----
 スライド上映(基地の町・コザ、金武、辺野古、南島の風光、花、海、空etc)
 しながらの唄(ブルース)とゆんたく(語り)
12/20(木)  モモの木(047−379−3755) PM7:30 ¥2.000(菓子付)
 JR総武線市川駅北口下車 右折高架線路に沿って直進徒歩5分
12/21(金)  オープンスペース街 PM7:00(03−3928−1378) ¥1.500  
12/25(火)  かけこみ亭 PM7:30(042−574−3602) ¥2.000
 JR南武線谷保駅北口 マクドナルド 右折 100m
  ゆたしく うにげえ さびら!  にふぇーでーびる 

関さんの知り合いの(株)トーダンからカレンダーが届きました。飛ぶように売れています。有り難うございました。m(__)m
 えばっち((前進友の会)からオコシの寄付。早速、オヤツにしました。かじりつく仁君。えばっち、おおきに (^o^)丿
 ユニオンさんから、クリスマスの料理のお返しで調味料。  マックの耳がただれて臭いので動物病院へ。
耳の薬3000円、注射6900円、高〜いワン。。
悩める新カメさんを囲んで、
閉店後、みんなで話し合い。

最後は、スッキリして帰っていきました。

メデタシ・めでたし

(^o^)丿

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。 ─ ○ ─
V..v 白 保 メ ー ル│\ Dec.19.2001
>>∈∋<< v..V        。 No.12
"" >>⊂⊃<< . . 。
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<『カラ岳陸上案』はどう決まったか>(その2)     鷲尾 雅久
 [審議の実態]
 位置選定委員会は、1999年8月29日から2000年3月31日までの間に、全体委員会8回、学識部会4回、地元部会2回が開かれました。私は実質的な審議が行われた第2回以降の全体委員会を傍聴しましたが、沖縄県からの説明とそれに対する質問に終始し、各委員の意見はほとんど聞かれませんでした。

 1999年9月から11月中旬までの審議では、学識部会(那覇)、地元部会(石垣)の各2回が、4案の説明に費やされました。説明は、気象条件、航空機騒音、土地利用状況、文化財・史跡、代替地の確保、地権者の状況、事業費、事業期間、滑走路延長の可能性、市街地までの距離、議会の議決の状況、関係諸団体の理解、自然環境の改変、農政上の課題、地元状況等(賛否の意見表明)、環境保全等に対する意見、その他の17項目にわたって行われ、膨大な資料も配られました。
 このあとの審議を見ると、この説明と膨大な資料がどのように生かされたのか分りません。
 
[恣意的な評価項目選定]
 具体的な選定方法は、12月22日の第3回学識部会で検討されました。17項目の説明事項をもとに沖縄県側から24の評価項目が示され、学識部会はその中から4項目に絞って比較検討することとしました。1.航空機騒音2.土地利用状況・計画(農政上の課題)3.自然環境の改変(環境保全上の課題)4.滑走路延長の可能性、です。その他の項目は各案でさほど差がないという理由で、除かれました。

 17がなぜ24になったのかも分りませんが、なぜこの4項目が比較検討項目に選ばれたかも、よく分りません。除外された項目の中には、立地条件としてまず考えるべき市街地までの距離が含まれます。どの程度地形を変えなければならないかということも、あとでカラ岳の切削が問題となっているのですから、この段階で考えるべきことだったと思います。

 またそもそも、一部の項目で評価するという考え方自体、妥当なものかどうか疑問です。ウェイト付けはするにしても、挙げたすべての項目を検討するのでなくては、評価が偏るおそれがあると思います。

 4項目のうち、滑走路延長の可能性を挙げることには疑問があります。需要予測は最初の新石垣空港計画以来下方修正が続けられており、実際は中型機でさえ飛ぶかどうか分りません。いつかもっと大型の飛行機が必要な時が来ると言うのなら、その頃には短距離で離発着できる新型機が開発されているということも言えます。これは、今まで2500メートル滑走路が必要だと言い続けてきた役所の面子を保つためのものとしか考えられません。

 また、航空機騒音は、地形等の条件を無視して宮良案の騒音範囲をあてはめたものですし、環境の調査は、冨崎野案とカラ岳陸上案については実施されていませんでした。つまり、不十分な資料しかないものを検討項目に挙げたことになります。これでは的確な評価は期待できず、後でその選択が不適当だとされる可能性すらあります。

[○△×による評価]
 評価は○(良い)△(やむを得ない)×(悪い)によるものとされました。これはかつて白保海上案を選定したときにも使われ、批判があったものですが、何とも大雑把すぎます。

 評価をするには、その基準が必要です。一人一人の評価基準が違っていたら、相互の比較はできません。基準自体の統一が困難なら、少なくとも、なぜそう評価したかを相互に説明する必要があります。位置選定委員会では、評価基準についての議論はなく、評価理由の表明すらありませんでした。これでは共通の理解をもつことはできず、評価は主観的なもの、さらに言えば印象にとどまります。あとは数で決めるしかありません。○△×という大雑把な評価は、数で決めることには対応していたと言えるでしょう。                        (つづく)

<東京都、小笠原空港建設を断念>
 東京都は11月13日、小笠原空港計画(父島時雨山案)を撤回したと発表しました。
 理由の一つは、学識経験者等により構成される『小笠原自然環境保全対策検討委員会』から「影響を被る貴重種が多数あり、保全方策を確実に講じたとしても影響軽減効果には限界がある」との意見書が提出されたことです。環境現況調査で確認された貴重種として、絶滅危惧種のムニンツツジなど44種の植物、国の天然記念物に指定されているオガサワラノスリなどの動物22種が挙げられています。

 もう一つは、環境保全対策を含めた事業の見直しにより、総事業費が 1,100億円を超える上、事業期間も長期化し、完成が早くても平成30年度以降となる見込みとなったことです。

 この計画の代わりとしては、「新たな航空路案」を検討することとされています。硫黄島の飛行場の利用(ヘリで乗り継ぎ)や飛行艇などを考えているようです。

 なお、上記意見書は、インターネットで全文を読むことができます。これには「参考意見」として、空港案の見直しを求める意見書も付されています。

 小笠原に倍する貴重種がすでに確認されているカラ岳周辺についても、慎重な検討を期待したいものです。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2001/11/60BBE100.HTM

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♪♪ 転載を歓迎しますが、著作権は各執筆者に属します。
    引用される場合は、執筆者にお断り下さい。
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白保メール NO.12 01.12.19
発行者   鷲尾雅久 谷崎樹生 小林 孝
      shiraho@estate.ocn.ne.jp

12月20日(木) 「街」日誌12/19
★冨田さんが店頭に「クリスマス・プレゼント・コーナー」を作った。
☆今日も沢山の寄付をいただいた。
★午後からボランティアのチーちゃん、シズエさん、皆川さん、田中さんが来てくれました。ボランティアさんは大体、今日が
 年内最後の仕事になります。今年も一年間、有難うございました。
☆ミーティングでは、「ジュゴンの家」日誌を読んだ。「ジュゴンの家」の若者たちは日々格闘しながら必死に生きている。
 「引き受けること・責任をとること」とは何かについて話し合った。「街」の僕らも、彼らに負けないように生きようと思った。  
 昼食は水曜日、ハネやんの定番の豚汁、丸干しイワシに
神保さんの4種類の漬け物。 
 夕食は冨田さんが、中国の山奥鍋を作った。豚肉・白菜・
ビーフン・椎茸を煮る。漬け汁は沢山の塩と七味だけ。シンプル
だけど懐かしい味だった。
★杉本君が来て、塾生にとって入試試験に向けて一番大事な時期になり、ゆっくり夕食を問ってるヒマがなくなるので
 しばらく休みますと言いました。
☆金城先生が来て三線教室が始まり、9時過ぎまでやっていた。
★ハネやんは2階で、NHKの「大阪・池田小事件〜宅間容疑者の供述」というテレビを見ていた。検事側のニュース会見と、弁護士の
 インタビューがあり、「精神分裂病」か「人格障害」か、「責任能力」の有無という点で裁判が進められるようだった。

ハンセン病問題の全面解決に向けて今年最後の闘い
心を込めて皆様へのお願い
〜ハンセン病問題の全面解決に向けて今年最後の闘い〜ふたたび不誠実な国(厚生労働省)を取り囲むために

全国で闘っているハンセン病訴訟の原告や今なお差別偏見に苦しむ方々へみなさんと手をつないで山場を向えた全面解決への後方支援というクリスマスプレゼントを届けたいと思っているのです。♪

インターネットって情報データの世界ですが、私はきっと温かな気持ちの通ったネットでもあると思うのです♪

このメールは、「ハンセン病回復者とふるさとをむすぶ」HP作成委員会http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/8952/
清國寿朗 kwalk@geocities.co.jp  が715名に配信しています

みなさまへ

私たちからの緊急メールはこれで4度目になります。
最初は5月12日の控訴断念メールを送ろう
2度目は5月末の都道府県知事への謝罪メールを送ろう
3度目は11月の第4回厚生労働省協議に向けて厚生労働省を囲もう でした。

お願いの都度、皆様にはいつもご支援頂きとても感謝しています。こころよりお礼申し上げます。ありがとうございます。

しかし、本日緊急掲載としてHPに緊急のお願いを掲載しました。
■伝えよう私たちの思い
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/8952/webmaga/new6.html
■5月判決後の動きと未入所者・遺族原告の思い(被害の実態)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/8952/webmaga/new6_1.html

今なぜ、こうしてお願いを書かなければいけないのか?なぜ、こうして抗議と支援のメールを送らなければハンセン病の問題は解決しないのか、とても腹立たしく残念な思いでいます。

答えは簡単です。厚生労働省の官僚たちの無意味な抵抗です。メンツをかけた引き延ばしです。

私たち以上に5月11日の熊本判決、5月23日の控訴断念に涙して喜んだ原告・元患者らの喜びも解決協議の窓口となった厚生労働省の官僚たちによる責任回避と他人事発言によってことごとく裏切られて来ています。

それでも原告団・弁護団・支援者による粘り強い交渉と運動によって退所者保証など解決をしてきています。

しかし、厚生労働省は未入所者・遺族原告に対しては、「再び裁判所の判断を仰ぎたい」という理由で和解拒否をして裁判を継続しました。小泉首相もそれを黙認したのです。

報道では東京・岡山の原告は全員和解して終結したと伝えたれていますが未解決者は熊本地裁に転送して裁判の進行と運動の力を結集して闘っているのです。

12月7日(金)はその未解決の裁判(未入所者・遺族原告)での結審でした。久しぶりに傍聴した私はその被害の深刻さに再びこの問題を先送りにしてはならないと感じました。永松裁判長の和解勧告は国の対応へ怒りを込めたような口調で和解へ向けての所見を読み上げたのです。
詳しくは   http://www5b.biglobe.ne.jp/~naoko-k/courtopinion.htm

裁判所の判断を仰ぐとした厚生労働省はこれほど明確な判断を前にしても未入所者・遺族原告との和解に消極的です。

理由はまたも簡単です。
官僚が熊本判決・控訴断念の意味を少しでも弱めたいと思っているのです。これは11月16日の厚生労働省協議での真相究明をめぐり紛糾したことであきらかになっています。

厚生労働省は約束をした真相究明の場から原告・弁護団を排除して研究班の立上げを強行しました。研究班のメンバーには原告の代表や弁護団のオブザーバー参加も承認されていたのです。それなのに、研究班の主任で検証会議の座長
(酒井シズ氏)は、弁護団の出席拒絶、さらに原告の研究班からの排除を一方的に通知、原告・弁護団排除で研究班立上げを強行しようとしたのです。

結局、怒りに満ちた抗議によって後日原告の研究班復帰を約束させましたが、厚生労働省は、真相究明から原告・弁護団を排除して真相究明自体を事実上の控訴審にしようとしたのです。

真相究明の結果、
「熊本判決は誤りであった」
「国の政策は当時としては止むを得なかった」
という結論に導こうとしたのです。

というような局面が官僚たちの抵抗によりいまも続いているのです。マスコミは補償金の問題も妥結し再び和解勧告もでたので一件落着のように報道しています。しかし、厚生労働省の抵抗への闘いは、これからが本当の正念場なのです。

私の感触は5分5分です。(個人的で申し訳ありません!)
勢いはこちらにあります。したたかさは向こうにあります。

「したたか」は「強か」と書きます。そうです、手ごわいのです。
国民の見えないところで勝負します。言いがかりを彼らは平気で言えます。
官僚達には謝罪や反省の気持ちはまったくありません!感情はありませんが国民の意識が薄らいでいくのはしっかり読み取れます。

官僚が少々の批判は覚悟のうえで腹をくくれば和解拒否、敗訴判決、控訴という筋書きもありえるのです。彼らは5分5分のまま突破できるのです。

5分5分の解決などありません。あと5分押し込まなければならないのです。
全てはここ10日間の交渉とみなさんの協力による盛り上がりです。
だから、いま、原告団・弁護団の闘いへの後押しが必要なのです。
押し込む先は政治家と官僚ですが優先は政治家と考えます。

「えっ、もう解決してるんじゃないの?」
「最大の山場なんていう認識はなかったよ」

という人が多いのではないかと思いますが、確かに全面解決に向けての今年最後の山場なのです。来週早々には全国から原告・元患者らが上京するでしょう。決して若くはありません。元気な方々ばかりでもありません。

しかし、この闘いに勝たなければこれまでの成果が台無しになってしまうという思いから、この闘いのためにふたたび力を振り絞って国会や厚生労働省へ向かうのです。和解が拒否されれば3月29日が判決の日となります。
判決は当然所見と同様ですから和解拒否した国は控訴するでしょう。
国(厚生労働省)がその姿勢を貫けば全面解決はさらに遠のくのです。

この闘いを全国からインターネットを通じて支援しましょう!
インターネットを通じて全国から不誠実な国(厚生労働省)を取り囲んで行きませんか?

現在のハンセン病問題は、
(1) 熊本訴訟における遺族原告・未入所原告の和解問題
(2) 在園保障、社会復帰、謝罪名誉回復、検証からなる厚生労働省協議
の2本に大きく分かれています。その二つは密接に関連しています。

18日(火)上京団行動(これは未確認です)
21日(金)14時30分が熊本地裁の和解期日
25日(火)14時〜16時の第5回厚生労働省交渉(弘済会館・萩の間)
最寄り駅:JR 総武線・中央線 四谷駅・麹町出口徒歩5分
地下鉄 丸の内線・南北線 四谷駅・共通1番出口徒歩5分
有楽町線 麹町駅・2番出口徒歩4分 (誰でも傍聴できます)

の日程を踏まえて、家庭や会社のパソコンを使って下記要請メールを送って下さい。一人でも多くの方々にこのメールを広めてください。

その方法は下記のとおりです。

小泉総理大臣へ早期全面解決への思いをメールで届けてください。

関係大臣にこれ以上の引き伸ばしは許さないメールを届けて下さい。

衆参の厚生労働委員会の理事「官僚任せにしないで下さい」メールを届けて下さい。

そしてこのメールを皆さんのアドレス帳に載っている全ての方々に広めてください。

■首相官邸・ご意見募集フォーム (2,000字まで可能)http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
FAXは 03―3581―3883
住所: 千代田区永田町2―3―1 内閣総理大臣官邸

■厚生労働省メール先(坂口大臣宛へ)
投稿フォーム  http://www.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html
(メール投稿形式、1000字までは投稿可能)
厚生労働省トップ頁  http://www.mhlw.go.jp/index.html
FAXは 03―3595―2020
住所:千代田区霞が関1―2―2 中央合同庁舎5号館 厚生労働省

■法務省メール先 webmaster@moj.go.jp(森山大臣宛)
FAXは 03―5511―7210
住所:千代田霞が関1―1―1 法務省

文面は自由です。皆さんの感じた思いを届けて下さい。

■例えば・・・小泉総理大臣には
5月23日の小泉総理談話はとても感動した!その中で『政府としては、ハンセン病問題の解決に向けて全力を尽くす決意であることを、ここで改めて表明いたします。』とありましたね。今、未入所者・遺族原告の裁判所の判断を仰ぐ姿勢によって、再び全面解決への勧告(所見)が出ましたが、どうかあの時の決意を実行して下さい。私たちが望むのは早期、全面解決しかありません。熊本判決・控訴断念から半年が経ちました。「やると言ったことはやる」という国会での姿勢を私たちにもう一度明確に示して下さい。

■例えば・・・坂口厚生労働大臣には
全国の療養所を訪問した際に『生きていて良かったと思っていただけるような施策を行ないます。』とお約束をして下さいましたね。12月7日の熊本地裁の所見で未入所者・遺族問題は入所の有無、生存の有無に関わらずらい予防法によってもたらされた被害について明確な判断が出されています。行政では判断できないとして和解拒否しましたが、明確な判断が示された今、拒否する理由はどこにもありません。どうか早急に和解を受け入れ、25日に予定されている協議においても原告らの望む全面解決に向けて全力を傾けてください。耳を傾けるのは官僚たちの声ではなく、入所歴なき原告や遺族原告の思いです。一刻も早い解決を望む原告・元患者らの声です。原告・元患者らの求める全面解決に向けて誠実な対応を私達国民に示してください。

今後のスケジュールについてはHPに随時掲載します

なるべく早く送らないと効果が薄れます
■なお、余力がある方は衆議院厚生労働委員会の理事へ『官僚任せではいけません!』メールを送りましょう。
委員長 鈴木俊一(自民)
理事  棚橋泰文(自民)
理事  谷畑 孝(自民) g02813@shugiin.go.jp
理事  森 英介(自民) morijimu@kdkaso.co.jp
理事  吉田幸弘(自民)
理事 鍵田節哉(民主) g01229@shugiin.go.jp
理事 釘宮 磐(民主) g05609@shugiin.go.jp
理事  福島 豊(公明)
理事  佐藤公治(自由) ksatou@urban.ne.jp
(空欄はメール非公開などにより不明)

さらに、余力がある方は参議院厚生労働委員会の理事へ『官僚任せではいけません!』メールを送りましょう。
委員長 阿部正俊(自保) mailto:mahito@nakajima-mahito.com
理事  中島眞人(自保) mahito@nakajima-mahito.com
理事  朝日俊弘(民主) toshihiro_asahi@sangiin.go.jp
理事  柳田 稔(民主) minoru_yanagida@sangiin.go.jp
理事  松 あきら(公明)

(政党その他メール先はHPに掲載しています)

メールの積み重ねが国を動かす力になり素敵なクリスマスのプレゼント(朗報)が届けられるといいなー。

既に弁護団・支援団体は要請行動を起こし始めています。
私はハンセン病の問題に深く関わっていない方々ともこの一通のメールが心の通うネットを通じてふるさとへの道を広げていくようなつながりとなることを願って少し長い文章ながら思いを込めて書きました。
どうか、よろしくお願い致します。(きよくに)

12月19日(水) 「街」日誌12/18
★午前中は、前日のクリスマスパーティーの後片付けをやった。
☆昼食は、昨日残ったローストビーフを中心とした豪華昼ごはん。残り物はまだまだあるので、当分続く。
 洋平君は、昼から出勤。
★ペチャンコは「関のボロ市」初日から風邪を長引かせて休んでいる。
 いま一番元気なのは、タカちゃんと仁君。
 「タカちやんは的確なアドバイスをしてくれるので、頼もしい先輩です」と仁君。
☆ミーティングの後で、洋平と僕は「沖縄・名護への米軍海上基地建設反対ライブ」をやった。 
←則子さんの友達の伊丹さんがお手伝い



↑夕食は、カキとシーフードタップリのシチュー、ワイン付き。


年末越冬支援募金”を呼びかけ
  緊急アピール!!
「アフガンの人たちが、生きて冬を越すことを願いつつ、”年末越冬支援募金”を呼びかけます」
                                 アフガニスタン難民救援委員会

 先日12月11日から3日間「アフガン復興支援NGO東京会議」が開催されました。救援委員会からも参加して議論に加わってきました。ステージは「アフガン暫定行政機構」による復旧・復興に移りつつあるようですが、他方アメリカによる空爆や武力による徹底報復はまだ続いています。私たちは、一日も早くアフガンの人々が不安のないくらしができることを願っています。

 先の「NGO東京会議」における最終日の提言では「あくまでもアフガンの復興の主体はアフガンに住む人たちだ!」とアピールされました。また、明石康さんとともに記念講演に立たれた在日アフガン人のスルタン・アーメド・サレヒさん(京都市在住)は、厳しい冬を迎えるアフガンの現状を訴えられました。「貧しくて難民にもなれない難民」「毛布一枚すらないために凍死してしまう子ども達」など、餓死寸前の人たちが50万人も存在すると報告されました。彼はペシャワールに孤児のための小さな学校を建てて支援している他に、難民キャンプでPTSDに苦しむ人たちのためのクリニックも支援しています。この12月25日からアフガンに戻り、これまでも教育サポートを続けてきている子どもの支援や難民キャンプで毛布などを配る予定だということです。

 私たち「アフガン難民救援委員会」は、こうした厳しい状況のなかで冬を越さなければならないアフガンの人々を支援する声を改めてあげねばならないと、思い起こされました。そこで緊急に「年末越冬支援募金」を呼びかけます。今回、この「年末越冬支援募金」で皆さまから寄せられた募金は、既に現地に入って支援活動をしているNGOのほか、12月25日からアフガンに戻るサレヒさんを通しても配分したいと思いま
す。
 何度もお願いするのは恐縮ですが、いま一度アフガンの人々が無事冬を越すために「年末越冬支援募金」をお願いする次第です。

関係者の皆さん!!是非、今一度各々の周辺でキャンペーンをお願い致します。

被災地NGO恊働センター
 e-mail ngo@pure.ne.jp
 URL   http://www.pure.ne.jp/~ngo/

「根津さん処分をとめよう」1・12緊急集会
「根津さん処分をとめよう」1・12緊急集会のお誘い賛同者になって下さい!

以下の訴えを読んで賛同する方はメールをお寄せください。
********************************
「根津さん処分をとめよう」1・12緊急集会に    賛同する
お名前
メールアドレス
肩書き(○○市民、○○組合、○○大学、○○の会、など・・・いろいろ)
公表可・不可
☆公表可の賛同人は、今後のチラシにお名前を入れさせていただくのと、集会決議を
教育委員会に出すとき等も、賛同人一同の名前を並べる可能性があります。
********************************
“指導力不足教員”のデッチ上げは不可解な「一通の手紙」から始まった
「根津さん処分を とめよう」 1・12緊急集会

  教育の管理統制・心ある教員への抑圧排除を許さない
時間 2002年1月12日(土)PM2:00〜
場所 やまばとホール (市役所隣旧多摩市関戸公民館)
     京王・小田急永山駅徒歩15分 聖跡桜ヶ丘バス10分
内容 講演 小森陽一 特別報告 国立など 教組、市民団体
              資料代 500円

 多摩で国立で、そして全国各地で、学校という閉じられた空間の中で、心ある教員が狩り出され、人権無視の監視やデッチ上げで、職場を追われ、押し潰されようとしています。そして、子どもたちには「素直さ、従順さ」が押しつけられているように感じます。多摩では授業で「軍隊慰安婦」問題を取り上げた教員が4月から「処分」攻撃に晒されています。

★ 4月、多摩市教委は多摩中学教員・根津さんに対して、「授業の進め方について市民からの苦情があった」という理由で「事情聴取」を行いました。市教委は「苦情」の内容を質問する市民にはおろか、本人にも明らかにしていません。

★ 7月、市教委と都教委は、根津さんに対して、異例の長期授業監視を続け、一方で校長は、根拠のない授業改善命令などを立て続けに「職務命令」の形で出してきました。しかも、その真意を質問する根津さんに対して問答無用です。

★ 9月、校長は「指導力不足等教員」の申請を出し、市教委は都教委にその申請を上げました。何を根拠に「指導力不足」を申請したのか、校長、市教委、都教委は明らかにしようとしません。

★ 根津さんは断じて「指導力不足」教員ではありません!教育に対して、不当な政治的介入・支配から良心の自由を守り抜くため、私たちは全力をあげて不当な「処分」を断念させる行動を続けたいと思います。

★ 1・12集会への参加と今後の行動への参加・強力をお願いします。
             主催 1・12集会実行委員会

教育の自由を考える市民集会実行委員会/「日の丸・君が代」強制に反対するシンポジュウム実行委員会/考え判断する子どもたちを育てる学校教育を!市民の会/石川中裁判を支える会/校長のデッチ上げを許さない教員の会
 連絡先 多摩市永山3−4−4−409 phs 070−6551−9414
 fax   042−371−2185(小山)
 tel/fax 042−592−3806(古荘)
バス案内 桜ヶ丘発 多摩センター行き 多摩市役所前下車

☆ 2001年も後2週間余り、この1年根津さんを先頭に、浅草花屋敷のジェトコースターに乗っている気分でした。それでも乗客(支援者)みんな両足をふん張り、突き進んでいきました。署名活動、抗議・要請行動、集会参加、皆さんがそれぞれの場から支援のメッセージを発信し、大きな力になりました。一年間ほんとうにありがとうございます。2002年初春に、1・12集会が開かれます。ジェットコースターをどんどん長くして、みんなで乗り込み、踏ん張ってNO!と言い続けましょう。集会の賛同者を募っております。多くの方のお申し出をお待ちして居ります。亀子新聞読者の賛同者のとりまとめをして、根津さんにお渡しすることになります。どうぞお力をお貸し下さい。メール、FAXでご連絡ください。個人(匿名の賛同も可能です)団体問いません。宜しくお願いいたします。(亀子)  

「根津さん処分をとめよう」 1. 12緊急集会
                               (亀子)

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