オープンスペース街・日誌

2001年10月D

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10月31日(水) 「テロにも報復戦争にも反対!日本は戦争に協力するな 観閲式に反対する平和の集い in 練馬2001」の集会デモにヨッシーが出演しました。ガンちゃん,とみたも参加/10月29日「街」日誌新バージョン『洋平日記』
「テロにも報復戦争にも反対!日本は戦争に協力するな
観閲式に反対する平和の集い in 練馬2001」

の集会デモにヨッシーが出演しました。ガンちゃん,とみたも参加
大泉公園でのライブ、集会のあと、朝霞の自衛隊駐屯地までデモし、自衛隊の人たちに『殺すな!そして殺されるな!
ー小泉首相、外務省、防衛庁は自衛隊員をブッシュの報復戦争に、きわめて無責任なかたちで送り出そうとしています。
自衛隊員がどうして一部の政治家と官僚たちの欲望のいけにえとして戦場に狩り出される必要があるでしょうか。
今こそ 練馬の地で、そして駐屯地の中からも「報復」戦争に反対していきましょうー』という申し入れをし、ビラを配った。 
ながーい 本日の集会の名前です 井上澄夫さんの挨拶
僕たちはテロには反対していない!と叫ぶヨッシー 朝早いので 目の赤い知念さんも唄う
 がんちゃんもびしょぬれになりながら駆けつけた 大泉公園は傘の花がさいたように人が集まって来た
公安の人たちもたくさん集まって来た

10月29日「街」日誌
 昨日ハウスに泊まったエバッチと皿澤さんが「街」に来た。昼食はウィズさんがおやすみなので冨田さんが
エバッチと皿澤さんのために特製「報復戦争反対激辛カレー」を作ってくれた。超激辛でうまかった。えばっち
も感激していた。

 昼休みの後全員で「報復戦争反対、自衛隊参戦反対ライブ」をやった。歌と歌のあいだに、ガンちゃん、皿澤
さん、えばっち、高ちゃんの順でアピールをした。みんな自分の言葉で力強く戦争反対を訴えた。

 エバッチは「戦争になったらまず精神障害者や身体障害者、貧乏人が殺される。今行なわれようとしている
精神障害者に対するしめつけも自衛隊の戦争参加法も同じ事なんだ」と語った。

 ガンちゃんはビラを配り皿澤さんは署名を呼びかけエバッチはアフガニスタンの人達へのカンパを呼びかけた。
おきゃくさんや通りを歩く人は みんなの熱意に圧倒されつつもカンパしてくれた。

 えばちは「やれるやんか いっしょにやれたなー、これなんや」といって感動していた。エバッチのいつも弱い
立場の人の側にたつ姿勢、人が大好きで感動し怒る、とっても素敵な人だ。いま世の中は戦争をはじめ暗い
ニュースばかりでどうしたらいいんだろうと感じていたけれど、えばっちや皿澤さんや「街」のみんなやお客さん
たちや世界中のたくさんに戦争や差別に反対している仲間がいるんだと改めて思った。
京都前進友の会の2人に ヨッシーの新曲がうけまくる お客さんの早乙女さんから アフガニスタンの
カンパをうけとるえばっち
えばっちが関町の人たちに呼びかけると
そこに居た人たちはみんな耳を傾けた さすがです
「僕はこの戦争に反対する」決意したガンちゃんの顔
「街」の若手と前進友の会の若手2人が力強くアピール
金城孝さんが沖縄旅行のお礼にと 
北海道からこんなに大きなタラバガニを
送ってくれました。すっごーい!!
新バージョン『洋平日記』
グループホーム『洋平とジュゴンの家』で、自立するための練習をしている
洋平君の日記です。
大人として自立しました。 10月29日

10月30日(火) 日本社会臨床学会 秋の学習会 なぜ今「触法精神障害者」対策なのか−大阪・池田小児童殺傷事件を軸にー/「どこに行くのニッポンともに生きるアジアを考える」の写真「ロラの立場にたってみる?!ワークショップの会」 /恵那の熊五郎さんからのメール

10月27日は、学会、集会、ワークショップと、3つの集まりが集中したため、とみた組・ちゅーやん組・ヨッシー組の3組に分かれてそれぞれの集まりに参加しました。

@日本社会臨床学会 秋の学習会 なぜ今「触法精神障害者」対策なのか
−大阪・池田小児童殺傷事件を軸にー 10.27(土)
 少し遅れて着いた会場は50人ほどのひとでいっぱいだった。フリーライターの渋川氏の話は聞けなかったが、
次に精神科医の冨田三樹生氏(日本精神神経学会の精神医療と法に関する委員会の委員長)の話はかなり
難解なものだった。精神医療の問題点と刑事司法における精神障害者の処遇と問題を歴史的に話していた。
印象に残った言葉は「刑事政策のなかで精神医療が左右されて来た」ということだけでした。その後ついに
エバッチ登場。

 「学会と言うものに呼ばれたのは初めてだがもうこれで最後にしたい。今日きた人はすっきりしないでかえって
ほしい。キーサンの生活はけんかあり、どろどろだし矛盾だらけ、はっきりすっきりしたらうそになる。今日のテーマ
を本気で取り組むなら一緒に神経学会につっこんでほしい。理論ではなく行動してくれ。そうしたら信用する。」
とつきつけた。

 精神神経学会の法と人権の委員長の冨田ドクターに「太宰府病院の変死事件(予備調査委員会の調査が山上
によって握りつぶされた)をもう一度調査してあきらかにしてくれ」、中島ドクター(昨年まで横浜刑務所の精神科医
だった)に「気が狂うまで刑務所の医務課で働け」と迫った。そこにいた学者2名とドクター2名はえばっちと一緒に
突っ込むことはできないといった。触法精神障害者の事を本気でやるならもっと思いを大切にしてくれ、学会運営よ
り診察室をたいせつにしてくれ。というエバッチに対して「いわれなくてもそれはしている」との反論が中島ドクター
からなされた。エバッチが数字で理論で語るのではなく、自分の診察室、から物を言え!!という主張は本当だと
思った。

「街」からは新カメさん、ジン君、とみたが参加(特別参加でとみたの夫)しました。
発言する前進友の会のえばっち 川田さんとキムさんにもあいました
ジュゴンTシャツを着た関根君もいました 学会と言うものにでるのはこれが最初で最後や
と叫ぶえばっち
発言するジン君

A「どこに行くのニッポンともに生きるアジアを考える」の写真
(記事は先日の日記参照) 10.27(土)
洋平君みやちゃんも元気に参加した 韓国の高校生、大学生が自分の意見を語る
野呂瀬君も語る ヨッシーとジュゴンの家の後に歌った高校生のバンド

B「ロラの立場にたってみる?!ワークショップの会」 10.27(土)
がんちゃん、さぎりちゃんちゅーやんの3人は三鷹でおこなわれた「ロラの立場になってみる?!ワーク
ショップの会」に参加しました。ロラはフィリッピン語でおばあちゃんのこと。フィリッピンから来日された
『元慰安婦のおばあちゃんと話して見ませんか』という会でした。会場は70人くらいの人が集まっていま
した。大学生くらいの若者もたくさん参加していました。まず4〜5人ずつのグループに分かれてロらラの
描いた絵を一枚ずつ渡され、その絵の解説を考えるワークショップ。その後インタビュー形式でロラ、レ
メディアス フェリアスさんのお話をうかがいました。
本日のタイトル 「街」からはガンちゃん、さぎりちゃんと若手が参加
プラスちゅーやん
司会進行役の加藤さん
レディアス フェリアスさん 初来日手作りのドレスです
リラフィリピーナ(慰安婦にされた被害女性と支援の
女性が共同で人権回復の為に闘っている団体)
のソニア ラピスラさん 
ロラさんの絵

何があったのか知ってもらいたかったので描いた
正義を回復したい。
日本は今でも私たちを理解してくれていない
まだ私たちの中で戦争は続いている。

 恵那の熊五郎さんからのメール
ハネやん様 そして街の皆様
ご無沙汰しております。お変わりありませんか?
 
6月にお邪魔して以来、いろいろバタバタしていて、なかなか武蔵関へ足を運ぶことが出来なくて、
街のみなさんは、どうしているかなぁと時々思っていました。
 
さて、今日は2つ、ご連絡というかお知らせがあります。
 
以前に、お話ししていた、従軍慰安婦、強制連行といった内容を笠木透と雑花塾でCDにまとめ、
なんとか来月の中旬には完成・発売できるところまで、こぎつけました。
内容的に、チャンプルー・街で川田文子さんにお会いできたことが、非常にグッドタイミングで、
また川田さんも、無理なお願いを、いろいろ聞いて下さり、協力して下さいました。
っ越されたようですね。
 
また、CDのライナーノーツには、笠木透さんのコメントで、チャンプルー・街で川田文子さんに出会ったことも書かれています。
ただ、文書の校正に僕が関わらなかったので、「ライブハウス チャンプル・街」と表記されているので、その点は、どうぞご容赦を。
 
僕のHPに宣伝チラシなどもアップしてありますので、また、おひまなときにでも見て下さるとうれしいです。
 
もう一つは、ジュゴンの家のHPでも書いてあったように、11月30日〜12月2日まで行われる「日本平和大会」に僕も参加します…というか、休みを取って、自腹で、ゆっくり名護近辺を歩いてみようと思っています。宿泊は、会沢さんちです。
 
その時は、かならずジュゴンの家へ寄りますから・・・・。
 
というわけで、僕も、自分の出来ることで、平和な社会を築く方向で、取り組んでいます。
街の皆さんも、がんばって下さいね。
 
それでは、また。

10月29日(月) 『どこへ行くの?ニッポン ともに生きるアジアを考えよう』に行った感想/韓国の高校生、チョン・ジェシクさん、キム・ポラムさんの話

『どこへ行くの?ニッポン ともに生きるアジアを考えよう』に行った感想
よっシー 10/27(土)

 みやちゃんと洋平君と僕は、荒川区旧真土小学校で行われた『どこへ行くの?ニッポン ともに生きるアジアを考えよう』と題した集会に参加した。

 PM12:15にリハーサルを終えて近くの韓国料理屋で焼肉定食を食べた。キムチ・ナムルなど6種類の野菜料理が小さな器に盛られて出てきた。おいしかった。荒川は初めて来たが、韓国料理の店が多くて、道端でも韓国の言葉が飛び交っていた。

 PM1:30に集会が始まった。参加人数約100人。若い人もお年寄りの方もいた。まず実行委員長の野呂瀬さんが「今ほど日本がどのような道を歩むのか考えなければならない時はない」とあいさつをした。次に龍谷大学教授の田中宏さんが講演をした。

 初めに田中さんは、千円札に伊藤博文が使われていたことを例に出し、日本人がいかに歴史に対して無知で無神経かということを語った。次に、南京大虐殺について話をした。当時、日本人は南京陥落万歳を叫んで、昼は日の丸を振り、夜は提灯行列で祝ったそうだ。南京で日本軍がどれだけひどい事をしているのか知らないのは、日本人だけだったそうだ。世界中の新聞で、日本軍の蛮行が報道されていた。しかし「石原慎太郎はぬけぬけとあんな事はなかったと言っている」と、田中さんは石原都知事に対して怒っていた。次に、戦後の日本の外国人差別について話した。憲法には「国民」という言葉がよく出てくるが、「国民」の中に外国人は含まれていない。選挙権がないし、公営住宅にも入れない、母子手当てももらえない。しかし税金を取るための法律には、「国民」という言葉が使われず、「居住者は」となっている。外国人は税金だけ取られて、権利や公的サービスが受けられないという、まったくひどい国だ。

 次にパネルディスカッションがおこなわれた。5人若者が前に並んだ。右からチョン・ジェシクさん(新成高校1年)、キム・ポラムさん(キョンギ高校2年)、キム・ソリさん(梨花女子大学中文学科3年)、佐藤明秀さん(東ほう大)、宮城孝太郎さん(文教高校2年)だった。

 キム・ソリさんの話/従軍慰安婦の話しをします。小林よしのりは戦争論で「すべての女性は自発的に慰安婦となり、金をもうけている」と言っているが、そんなことはない。彼女たちは日本にだまされたり、強制連行されて性奴隷にさせられた。暴力、差別、辱めを受け、今も侮蔑され無視されている。慰安婦の手記を読んだが、10ページ以上続けて読むことができなかった。韓日問題の中心に従軍慰安婦問題がある。日本の敗北により彼女たちは、虐殺され、生き残った人たちも苦痛を持ちつづけている。日本政府に謝罪を求めても、いっこうに動こうとしない。多くの元慰安婦が亡くなっていく。彼女たちは物質的補償を求めているのではない。日本の心からの謝罪を求めている。歪曲と隠蔽は終わりのない悪循環だ。

 佐藤明秀さんの話/僕は在日3世で朝鮮学校へは行っていない。つい最近まで韓国人であることがいやだった。九段に高校があって右翼が大騒ぎしている時、自分が犯罪者のように感じた。今日は違う。日本は他国の事を考えて共生の道を歩むべきだ。

 宮城孝太郎さんの話/今年4月フィリピンへ行った。劣悪な環境。経済的な貧しさ。しかし、心豊かな人々に尊敬の念を抱いた。今、沖縄のジュゴン保護活動をしている。お互いを知ることからはじめよう。

 次に会場からの発言があった。

 大塩清之助さん(牧師)/私は1926年生まれ74歳です。朝鮮の学校から海軍へ行った。日本の戦争は、アジアを欧米から解放する戦争だと信じていた。教育の恐ろしさを痛感する。医者になりたかったが、上級学校へ行くのは兵役を逃れる卑怯な事と考えた。敗戦後、最善のことをしていたと思っていたが、最悪の侵略をしていたとわかり絶望した。死のうと考えた。若いみなさんの話しはその通りだ。(大塩さんは涙を流した)これからも戦争責任の告白をしてゆきたい。

 ほか、会場から5.6名の発言があった。

 僕も質問をした。韓国、日本にアメリカ軍がいることについてどう思うか? 9.11のアメリカでの飛行機激突事件を引き金に現在行われているアメリカによるアフガニスタン攻撃をどう思うか?

 僕の質問にキム・リリさんが答えてくれた。

 あれだけ多くの人を殺してまでテロを起こさなければならないのかと反感を持ちました。長期にわたる報復攻撃が続き、オサマビンラディンも国を愛するがゆえにやっていることではないかと考えるようになりました。しかし、貿易センタービルにいた人は一般人、方法に問題がある。アフガニスタンの貧しい人々に攻撃をする必要があるのか。アメリカも方法をあやまっている。

 在韓米軍について。韓国は朝鮮戦争以来、米軍の援助を受けている。不平等条約があり米軍は撤退すべきだという意見があるが、北は核を持っているので現時点では米軍に頼るしかない。

 韓国から来た学生3人みんなが、実際に戦争に参加した日本のお年寄りの方が、反省の言葉をのべた事に感動したと言った。韓国では多くの人が日本人は侵略を反省していない保守的な人たちだと思っているそうだ。

 討論会が終って、お茶の時間とバンド演奏の時間になった。僕たちは、「都知事様」と「東京の空の下から」と「俺は売れないRockn'Roller」を歌った。洋平君は吠えまくり、ミヤちゃんは華麗に踊った。僕はアフガニスタンへのカンパを訴えた。

 APFSであったマスドモハメッドさん(バングラディッシュ)が声をかけてくれました。僕たちの歌に感動したと言ってくれた。マスドさんは「アジアと言いながら、韓国、せいぜいフィリピンの事しか考えていない。アジアはアフガニスタンをはじめたくさんの国があり、戦争が起こっている。アジアの人々が共に助け合って、戦争や貧困をなくさなければならない。」と言った。

 僕も9.11事件以前はいわゆる「中東」と僕たちが呼んでいる国々がアジアだとは知らなかった。マスドさんにとってみれば、みんな「アジア」なんだ。僕が日本から出たことがないと言うと、今度機会があったらバングラディッシュへ行こうと言ってくれた。僕はテープを送ると約束した。

 ミヤちゃんは参加者の女性に「奥さんおどりがうまいわねぇ」と言われた。それを聞いていた洋平君は「ミヤちゃん人気ナンバーワン」と言った。

 帰りの電車や駅で洋平君は大はしゃぎだった。駅長になり切って大声でアナウンスしていた。今回参加して思ったけど、本当に軍隊や戦争に使う金があったら税金を国際交流のために使えよと思った。世界中の人と小さい交流会を無数にやって行けば、戦争をなくせると思う。今日は5時間の集会だったけど、時間がぜんぜん足りないという感じだった。


私は韓国から来ましたシンソン高校1年生の
チョン・ジェシクです。

 私は今日この席で、最近日本で「新しい歴史教科書をつくる会」によって引き起こされている不幸な事態について話してみようと思います。

 まず、いったいどうしてこのような恥ずべきことが生じることになったのか理解できません。それも未開の後進国や野蛮な国でもない、先進国と自負している日本でです。私は今まで「歴史は現在を形成するめの結果物であり、未来を映す鏡だ」と学んできました。また、それが正しい言葉だと思っていました。

 民族の違いにかかわらず、いえ、一個人でさえも、過ぎた過去をむやみに変えることはできないと思います。なぜならその民族が、またはその個人が生きて、過ごしてきた日々が一つになって今日になり、また明日を形づくる鏡となるからです。

     ◇     ◇     ◇     ◇

 教科書は成長していく学生に絶対的であり最高の権威をもった書物であり、学校で習った内容は学生たちの人生を支配するほどに影響をおよぼすものです。ですから私は、教科書とはどんな本よりも正直で真実のみが託されているべきだと思うのです。

 ところが最近「新しい歴史教科書をつくる会」でつくった本に盛り込まれている内容とはどんなものでしょうか。

 過去36年間韓国を侵略していた事実を正当化すめために立てた「日本浮説」「三国の朝貢説」そして「侵略」を「進出」に、「従軍慰安婦」を「慰安施設」に、「南京大虐殺」を「南京事件」と微妙に語彙を変えて、日本が引き起こしてきた歴史の汚点を隠蔽した事実に満ちているようです。ところがこのような誤った歴史を事実として把握し、学びながら成長していく日本の青少年たち、彼らの未来ははたしてどうなるのでしょうか。何の問題もないことでしょうか。

 この事態について、韓国だけでなく全世界153の国々が日本の誤った態度を批判して正しい歴史を是正せよという声を上げているのはなぜか−−それは、まさに「教育はいかなる場合にも真実でなくてはならず、手段や目的になってはいけない」と考えるからです。誤った事実を学んで育つ日本の青少年の未来を案じての声なのです。

 人はだれでも過ちを犯してしまうものです。しかし、その過ちをどのように対処するかによって未来は確かに変えることができます。フランスのビクトル・ウィゴーの小説『レ・ミゼラブル』に出てくる主人公ジャン・バルジャンは罪人であったけれども後に立派な人に生まれ変わり、善い行いをたくさんしました。アジアを侵略して植民地にしたという過去の過ちは過ちとして、21世紀という新しい時代に決して再び同じことを繰り返さないよう、当事者である日本が反省して未来の平和のために先頭に立つべきだと思います。

 近頃、全世界が、過ぎた日の戦争と暴力の歴史を反省して平和な時代を築くために努力するすう勢にあります。ドイツはヒットラーの時代にユダヤ人を虐殺するという悲惨な蛮行を起こしましたが、第2次世界大戦が終ってから自らの恥ずべき歴史を徹底的に反省し、戦争被害者に対する謝罪と保障を実践することで世界の平和の先頭に立ちつつあります。今、誤った歴史の記述された歴史教科書をなおすことを大人の次元で拒否するのだとしたら、これから育っていく青少年である私たちがその教科書で学ぶことを拒否するべきだと思います。もしまわりに「新しい歴史教科書をつくる会」でつくった教科書で勉強している中学生がいたら、みなさんがきちんと知らせてやるべきでしょう。

 私たちは今成長真っ盛りの青少年です。

 私たちが謝った歴史を学んで育っていくとしたら、未来ははたしてどうなるでしょうか。

 大人が、政府が、過ちを隠して歪曲するのだとしたら、私たち自身ができることはなんでしょうか。

 幸いなことに、ほとんどの日本の中学校で歪曲された教科書が採用されなかったと聞きました。そして日本国内の世論でも、自省の声はもちろん「新しい歴史教科書をつくる会」に対して友好的な態度を示していないと聞きました。また少し前に小泉首相が韓国のキム・デジュン大統領と首脳会談を開いたときに教科書問題が話題になり、「歴史を研究する会」という機構を構成して問題を解決していくことにしたという嬉しい知らせもありました。

     ◇     ◇     ◇     ◇

 日本の青少年のみなさん!

 私たち青少年が大人になる時代には「歴史歪曲」云々の話はこれ以上したくないと思いませんか。

 最も大切なことは、未来の主役となる日本と韓国、両国の青少年である私たちは真実をきちんと知り学ぶ権利があるということです。

 真実をありのままに見つめる目、平和を愛する心!

 これを常に心がけるようにしましょう。


キョンギ高校2年 キム・ポラムさん

 チョウ・オリョンさんをご存知ですか? 1970年タイ・バンコクで開催された第6回アジア競技大会で、年若くして水泳部門で2冠王を占めたことで話題になった韓国人です。そして1980年8月11日、韓国・釜山を出発して13時間16分で大韓海峡48km横断に成功したことで再び有名になりました。

 そうです。

 韓国の日本の間の物理的距離は、ただ1人の人間の努力だけで克服することができました。しかし、私たち2国民の心の中で生じてしまった溝もまた1人の努力だけで克服できるものでしょうか。いいえ、できません。それは一個人の努力、一国家の努力でもってしても難しいことです。私たち両国が一つの志をもって力を合わせてこそ可能になるでしょう。2002年に世界的なお祭りを共に開いていくという大きな仕事を前にしていま、私たちは和合の難しい第一歩を踏み出そうとしています。それは過去を認めて自己を反省すると同時に、将来の新しい歴史を築くことにおいて同じ失敗をおこしてはならない多くの課題が残っています。私はそのうちの一つとして、靖国神社参拝について意見を述べようと思います。

 去る8月13日、アジア各国が日本軍国主義の侵略の直接的な被害国の韓国と中国の国民の強い抗議にもかかわらず小泉首相の靖国神社公式参拝が行われました。靖国神社はアジア侵略戦争を「大東亜聖戦」と描写しており、戦犯者を「殉難者」としてあがめている日本軍国主義の総本山という点で韓国の国民は憤りを禁じえません。この間韓国を始め中国、アジア各国政府と国民は小泉首相の靖国神社参拝で日本との友好関係が妨げられ、取り返しのつかない結果を招くことになると警告を発してきました。しかし小泉首相は日本国民に日本が勝手に行った戦争犯罪の真相をきちんと知らせておらず、むしろ軍国主義勢力の世論のみを考慮して参拝を敢行したように見えます。靖国神社は第2次世界大戦中世界平和を脅かした国際戦争のA級戦犯の位牌が安置されているところで、韓国の国民には拭い去ることのできない傷と憤りの象徴と言えます。日本の立場で見ると、戦犯たちの犠牲のもとに現在の平和と反映があるのかもしれませんが、アジアの各国では彼らによって多くの国民が死んでいき、傷を負い、いまだにその後遺症が治らない状態です。このような状況での今回の日本の首相の神社参拝は、一個人の所信の次元をこえて日本自身が急激に右翼的な回帰を意味するものと考えられ、大きな波紋が起こっているのです。

 韓国が靖国神社参拝を反対する理由が反日感情のせいだと考える人もいます。しかしそれはまったく事実に反しています。私たちが神社参拝を反対する本当の理由は無残で恥ずべき過去や反省することを知らない現在の日本の姿のせいではなく、まさに何十年後の未来に関わることだからなのです。今日保守的で国粋的な既成世代の誤った行動によって未来の世代の認識の中に日本が「殺戮と血なまぐさい戦争を起こしてアジアを苦しみにおとしめた、頭を垂れて謝罪しなくてはならない日本」ではなく、「アジアを欧米列強の支配から開放してアジアの解放戦争を勝利で飾った賛美される日本」になりうる事態は避けなくてはなりません。自国の歴史のみが偉大で誇らしいという考えをもった青少年はほかの国を卑下することになり、結局、世界平和のための同伴者としてともに手を取り合うべき韓国と日本の若い世代間に新たな衝突が起こることは火を見るように明らかだからです。

 けれども私は、正直で客観的な歴史認識をもっている日本人が多いということを信じています。少し前に日本の教科書歪曲事態が起こったとき、健全な良識のある日本の市民団体の積極的な指示がなかったら、戦争を美化して侵略の事実を隠し、不利だと思われるすべての史実を歪曲、否定する教科書が日本の青少年の正しい考え方を害し、脅かす結果を招いたでしょうから。日韓問題の迅速かつ望ましい解決のためには、そのような日韓の市民団体の緊密な連帯活動が持続的に行われる必要があると思います。この点で、日韓間の葛藤に結び付けて日本との交流行事を無差別に制限している韓国の一部の動きは決して望ましいことではありません。

 それから、ここにこの機会を借りて日本の良心に訴えたいことが1つあります。靖国神社に祭られている2万余の韓国人の位牌の返還に関することです。日本政府側は、現在韓国人である戦死者みなが天皇のために命を捧げた戦功者だと主張して返還を拒んでいます。しかし、彼らはみな自分の意志とは関係なく強制的に徴兵された人たちです。靖国神社側は戦死した時点で日本人だったため、のちにそれを覆すことはできないとして合祀の正当性を主張していますが、功労を称えるというのならどうして遺族に今までありのままを伝えることをせず、わずかな補償もなく勝手に合祀してしまったのか問いたい気持ちです。韓国の遺族の切実な願いや、A級戦犯と一緒に葬られて日本の天皇のために戦死したことになってしまった故人らの名誉回復のためにも、すみやかな位牌の返還がなされるよう韓国と日本の心ある人たちが力を合わせなくてはならないときです。良心の声に耳を傾けていま一度、日韓の協力の雰囲気がつくられることを願っています。

 21世紀は戦争で塗られた過去の20世紀を清算して国際平和と協力に踏み出す世紀であり、人間の尊厳の原理を基礎とした平等と友愛、自由と信頼による世界平和と人類の共栄を推進する時代です。地球村という言葉がいまはなじみのあるように、国と民族を超えた人類の普遍的な価値が追求される時代なのです。ですから私たちは、21世紀の希望であり未来の栄光として歴史の主人公になる私たち若い世代が、民族や国などの個別の価値のみを追及する狭い歴史認識をもつことのないよう願っています。そのために21世紀は自国の利益や民族のことしか考えない時代ではなく、自国とつながのある周辺国、周辺文化とのつながりを求める世界史的な暗黙を育む時代にならなくてはならないでしょう。

 世界平和と共存、栄光のための努力をまず周辺国家との関係から構築するべきです。もし隣りの国の世代が誤った歴史認識をもって民族や国家の価値のみを追及するようになったら世界は闘争と戦争に包まれてしまい、科学や文明の発達して現代に取り返しのつかない結果を招きかねません。韓国と日本は過去を許し、未来をともに切り拓いていく同伴者となるべきでしょう。韓国は被害意識を振り払い、日本は侵略行為に対する心からの謝罪をして互いの協力と信頼を取り戻すときです。国際的な地域ブロック化の流れに伴い既にヨーロッパはEC統合という政治的な共同体を形成して文化的、歴史的土台を共有するたに努力しています。これからは日韓両国が東アジアの協力者になるべきです。今回の討論会をきっかけに、客観的な視覚とあふれる生命力を備えた韓国と日本の友たちが正しい歴史認識をもって世界平和に寄与することを願ってやみません。


10月28日(日) 「街」日誌

アフガニスタン難民・救援委員会NEWS<第10報>
 米同時多発テロに対する米軍などの軍事行動に自衛隊が支援する「テロ対策支援法案」が、26日の参院外交防衛委員会で与党三党の賛成多数で可決され、29日の参院本会議で可決、成立
する見通しです。これを受けて政府は、米軍への輸送・補給のためインド洋に派遣する海上自衛隊に、航路の安全を確保するため、最新鋭のイージス艦を同行させる方向で最終調整に入ったと報道されています。

 10/7の米英軍による武力報復開始より20日経ちましたが、ほぼ毎日攻撃は続いており、民間人が犠牲になったという報道も増えてきました。タリバン系メディアの国際世論向け誇張もあるでしょうが、国境を越えて逃れてきた難民の証言からも多数の民間人死者が出ていることがうかがえます。軍施設だけを狙っていると強調している米軍も、4件の誤爆と一部の民間人が犠牲になったことは認めています。このまま、誤爆が当たり前のように報道されて行くのでしょうか?

 現地視察(パキスタン・ペシャワール)に行ったある議員は「アフガニスタン国内には難民にもなれない10万人が餓死しようとしている。武器より食糧を!」と訴えています。ニュース9号に「アフガニスタンでは2000円で10人家族が1ヶ月食べることができます!」と書きましたが、これは最低限の食料援助としてナン(アフガンの主食のパン)を焼いて配るペシャワール会の緊急援助プロジェクトの呼びかけです。1万人の市民が2000円ずつ出せば10万人のアフガニスタン人を支えられる計算になります。

<10.10緊急抗議声明について>
 10/10に発表した緊急抗議声明は10/27現在41団体59個人の賛同を頂いていますが、10/27付でブッシュ大統領宛にメールと郵便(郵送はアメリカ大使館気付)を出しました。賛同者は今後
も受け付けています(内容についてはHPをご覧下さい)。

<集会等の情報>
○連続セミナー「私たちの難民問題」
  第1回 11月3日(土)午後2時〜5時 「アフガニスタン 忘れられた難民」
      永井真理さん(国境なき医師団)、木山啓子さん(JEN)

 20年以上続く内戦と、35年ぶりの大干ばつのためにアフガニスタンには100万人の国内避難民が、周辺国には350万人以上の難民がいます。アフガン難民、国内避難民の現状と今後の支援について、現場で活動した医師、NGOスタッフから聞きます。

  会場:神戸YMCA(神戸市中央区加納町2-7-15、三宮より北へ徒歩10分)
  定員:80名

  第2回 11月7日(水)午後6時30分〜8時 「パレスチナ 平和共存への道」
      佐藤真紀さん(日本国際ボランティアセンター)

 昨年9月以降のパレスチナ・イスラエルの衝突が拡大、激化する中、音楽や文化活動をとおして、将来の平和をになう子どもたちの心に希望をもたらすために行われているNGOの活動について聞きます。
 会場:神戸クリスタルタワー7階 会議室(JR神戸駅すぐ)
 定員:40名
  いずれも参加無料

要予約:電話、またはメールでお名前、連絡先、参加希望の回をお知らせください。
連絡先:アジア福祉教育財団 難民事業本部(078-361-1700)

○チャリティ写真展「アフガニスタン 未来を築く子どもたちへ」
  会期:11月7日(水)〜11日(日) 午前9時〜午後7時
*スライド上映会−11月11日(日)午後2時〜
  会場:兵庫県立神戸生活創造センター(JR神戸駅東、神戸クリスタルタワー4階)
  入場料:無料
  主催:神戸新聞社、AM神戸、宝塚・アフガニスタン友好協会
  
○写真展「平和だった頃のアフガニスタン」緊急開催by長島義明

 全世界を旅した写真家長島義明が、その美しさに感動した自然と人情に溢れた国アフガニスタン。是非多くの方にこの写真(1978年当時のカラー写真約30点)を見て頂き、一刻も早く平和が訪れることを願っています。東京、広島、京都、大阪を巡回予定(東京以外は次号でお知らせします)。
東京会場:アートスペース瑠璃(港区南青山5-6-19 セイナンビル別館1F奥 TEL03-3400-4339)
10/31(木)〜11/5(月)、11/13(火)〜11/15(木) 11:00〜19:00
10/31(木)19:00〜 オープニングパーティ

<募金のお願い!>
 今回も、皆様から寄せられた支援金の内、全体の15%を限度として事務局運営費および管理費に充当させて頂きますので、ご了承下さい。振込口座は下記の通りです。次号よりご支援いただいたみなさまをご紹介していきます。
               ┌──────────────────────────┐                      
               │ 口座番号:00960−2−12443                │                      
               │ 加入者名:災害救援委員会                            │                      
               │ *通信欄に「アフガニスタン」と明記してください。    │                      
               └──────────────────────────┘                      

 ご寄付を頂いた方のお名前は、今後、FAXやホームページに掲載されるニュースレターにて随時ご紹介させて頂きます。

支援をしてくださった皆様(10月11日入金分、敬称略)
土屋(広島県)、山本(広島県)、小原(大阪府)、渡辺(兵庫県)、中村(京都府)、山本(大阪府)、中藪(京都府)、松本(奈良県)、永田(滋賀県)、浜田(大阪府)、小林(兵庫県)、栗本(京都府)、北谷(愛知県)、小田(大阪府)、津戸(大阪府)、八尾(奈良県)、中留(大阪府)、前田(奈良県)、池本(滋賀県)、桑島(京都府)、堂前(大阪府)、小越(大阪府)、藤田(大阪府)、亀之園(兵庫県)、岩男(大阪府)、岡本(兵庫県)、稲田(大阪府)、蔵本(大阪府)、松元(兵庫県)、白岩(兵庫県)、陸(兵庫県)、田中(兵庫県)、村上(京都府)、辻(滋賀県)、木下(京都府)、鈴木(兵庫県)、堀井(京都府)、福本(兵庫県)、芦屋聖マルコ教会(兵庫県)、源正寺(兵庫県)

アフガニスタン難民・救援委員会
構成団体(10月28日現在)40団体:アジア女性自立プロジェクト/アジアと水俣を結ぶ会/エフエムわぃわぃ/大阪YWCA/オープンスペース街/関西NGO協議会/金峯山寺青年僧の会/神戸外国人学校協議会/神戸学生・青年センター/神戸華僑総会/神戸定住外国人支援センター/神戸・長田勝手に宣伝連パート2/神戸復興塾/神戸YMCA/国際協力アカデミーひろしま/災害救援ネットワーク北海道/災害情報ネットワークプロジェクト山形/G.T.インターナショナル/週末ボランティア/震災から学ぶボランティアネットの会/ジュゴンの家/真言宗大日山慈恵院龍安寺/真言宗豊山派仏教青年会/震災から学ぶボランティアネットの会/震災を生きる宗教者のつどい/新日本宗教青年会近畿連盟/たかとりコミュニティセンター/多言語センターFACIL/小さな友の会/ツール・ド・コミュニケーション/新潟仏教NGO/日本青年奉仕協会(JYVA)/被災障害者支援・ゆめ風10億円基金/被災地NGO恊働センター/百番目のTシャツの会・藤沢/ひょうごセルフヘルプ支援センター/船橋市議会「小さな声ネットワーク」/ブレーンヒューマニティー/リーフグリーン/ワールドキッズコミュニティ

後援団体1団体:全日本仏教婦人連盟

※救援委員会への参画団体は随時募集しています。FAXまたはメールで事務局までご連絡くだ
さい!

事務局 被災地NGO恊働センター
連絡先:〒652-0801神戸市兵庫区中道通2-1-10
Tel:078-574-0701 Fax:078-574-0702

 e-mail ngo@pure.ne.jp
 URL   http://www.pure.ne.jp/~ngo/

アフガンで起きている本当のこと

中村哲さん医師/ペシャワール会現地代表]

飢餓で死に瀕する人々に とどめさすことになる
 ペシャワール会は、約18年間、アフガニスタン現地の医療活動に関わっていますが、文字通り超党派で、支援してくれる人の中には、右翼から左翼まで色々な人がいます。今日の話は、むしろ、保守系の党の人に聞いてもらいたい。私は、まったくの政治オンチで政党の名前もよく知りませんので(笑)、その辺はひとつご了解ください。政治的な発言は避け、現地の実情をなるべく正確に伝えたいと思います。

アフガニスタンは山の国
 84年、パキスタン北西部の辺境ペシャワールに会の拠点となる病院を置きました。現在、70床あるこの基地病院を基点に、アフガニスタン側に八カ所、パキスタン側に2カ所の合計10カ所の診療所を併せて運営しています。現地スタッフは、医療職員だけで252名、そのうち日本人ワーカーが5名おります。昨年8月から干ばつに対して、医療活動の一環として水源(井戸・用水路)1000本を確保をすべく活動している水源プロジェクトの職員が74名、作業員を入れると約700名で進行しています。会の年間の運営費は約1億円、そのうち85%が4000人の会員からの会費、募金によるものです。集められた1億円近くのお金の95%以上が現地プロジェクトに使われます。会は専従のいないボランティア団体ですので、ほとんど手弁当で事務局を形成しています。

 決して他の組織を悪く言うつもりはありませんが、組織が大きくなるとどうしても組織のメンテナンスに金がかかります。ある国連の団体は9割が職員の給与に使われるという状態で、残りの1割の中から、ジュネーブに行く費用などを引きますと、寄付が現地に届くのは数パーセント以下、ということが珍しくない。私たちの会について、ODAのように額は大きくなくても、一桁倍する力を民間でも発揮できるという例を皆さんにお伝えしようと思います。

 現在、カイバル峠の麓、国境の町のペシャワールを拠点に、アフガニスタンの診療所、ヌーリスタン、ダラエ・ピーチ、ダラエ・ヌールの三カ所に診療所を運営しています。

 現在カーブル(カブール)は巨大な無医地区になっています。人口百数十万、あるいは200万人と言われる街が、干ばつ難民で埋め尽くされていて、カーブル市民といっても、裕福な層は外国に逃げて行っています。ですから今カブルに残っているのは国に帰ることもできないような避難民です。首都である100万都市が、無医地区に近い状態なのです。

 会では急遽、今年の2月から5カ所の診療所を運営しています。私は、アメリカのテロ事件が発生する直前までカーブルにいまして、財政の許す限り診療所の開設をやれといって、診療所を10カ所に増やし、来年はさらに増やす計画に携わっていました。そんな時にテロ時間が発生しましたが、今、5カ所のカーブル診療所と3カ所の東側の山岳地帯の診療所は平常通り運営しております。あまり公にはできませんが、カーブルとジャララバードでも現地のスタッフは平静に診療を続けています。

 アフガニスタンというのは日本の方々にあまり知られていない国の一つだと思います。アフガニスタンは、広大な山岳地帯で、面積は日本の約一・七倍、人口は2400万人と言われていますが、正確な数字は誰も知りません。1000万人という説もあります。そのあたりはいい加減といえばいい加減です。地理的にはパミール高原を中心にして東に延びるヒマラヤ山脈、西に延びるカラコルム・ヒンズークシュ山脈にあたるところで、この7000メートル級のヒンズークシュ山が国の真ん中に座っている。アフガニスタンは山の国と言えますが、とてつもない規模の山でして、日本列島がすっぽり入る山です。

 余談ですが、私は元来山登りが趣味で、アフガニスタンへはヒンズークシュ山脈遠征隊の隊員として20数年前に訪れたのが初めてでした。ともかく交通網もそうですが、山がある故に割拠性が非常に強い。私たちは山間の谷を歩いたり、馬に乗ったりして一番遠い診療所へは片道一週間かけて行きます。タリバン側が交渉を引き延ばしているというニュースが伝えられましたが、アフガニスタン全土から代表者を歩いて1週間、馬で3日はかかりますから、日本では一日で済むことも、無効では2、3週間かかることは普通です。時間の流れが違うといっていいでしょう。

地域によっては我々と数世紀の差

 住民のほぼ100%といっていいほどがイスラム教徒です。イスラムというのはある種の国際主義の色彩を帯びていて、たいていは国家的価値より宗教的価値のほうが優先するのです。しかもアフガニスタンは、世界で最も古風なイスラム社会が存在していて、各地域を底辺から支えているのはモスクです。金曜日になると、モスクで説教を聞く。色々な意味で、モスクは地域の共同体の中心です。だからといって彼らが、他の宗教の人を追い出すかというとそうではなくて、邪魔しない限り攻撃はしません。

 例えば、私は、ハンセン病の仕事に携わっていますが、ハンセン病の人が村で迫害されるときにどうするかというと、国に訴えたり、法律上の人権を主張するわけではないのです。私は金曜日にモスクに出かけて行きまして、みんなに呼び掛けました。ハンセン病への迫害はイスラムの教えに反するのではないか、みんなでハンセン病の人たちを大事に扱いましょう、と。

 決して力や政治で押しつけるのではなく、宗教的、人間的な気持ちに訴えて迫害を無くすことをしています。私自身はイスラム教徒ではなくてキリスト教徒です。キリスト教徒がモスクに行って話をすることも可能な社会です。

 外国人がアフガニスタンを見た、パキスタンを見たといっても、所詮点と線です。旅行者、あるいは失礼ですが新聞社が伝える情報は、庶民にとっては雲の上の情報で、庶民は国連機に乗って移動するわけではありませんし、偉い人と会って記者会見するわけではない。地域によっては、ラクダの隊商も見られます。流通の末端地区を握っているのはラクダの隊商です。これはシルクロードの昔から変わっていません。

 私たち医療関係者の立場から言うと、医療は人間を相手にする仕事ですから、相手の患者さんが何を考えているのか、どういうことが嬉しいのか、どういうことで怒るのか、悲しいのかということを知らずに診療活動はできません。地域によっては我々とは数世紀の開きがあるなかで、患者さんの考えていることを理解するのは非常に根気と時間がいるという社会です。

 一般的なことですが、アフガニスタンは、貧富の差が甚だしい。ジャーナリストの方には申し訳ないのですが、いきなり1週間の予定で現地に飛んで、情報を集めて外電で送ったって、まず実状は伝わらないでしょう。貧しい階層と一握りの指導的な階層、あるいは裕福な階層と極端に天地の差があります。それはますます拡大しています。医師の立場から言いますと、日本で行われるような医療を現地に持ち込んでも人々にはとてもお金が払えない。ちなみにうちの現地職員である門衛の給与の初任給が、月約7000円。これは、現地の物価も安いのでそのまま比較はできませんが、外国に逃げていくような金はない、まともな医療は受けられないのが実状です。私たちが気を配るのはいかに少ないお金で、いかに多くの人に恩恵を及ぼすかということです。日本から新しい技術を持って行けば持って行くほどそれだけお金のかかる医療になりますから、ますます医療の恩恵にあずかる人とあずかれない人の差が開くというのが現状です。我々の対象は貧民ですから、それに合った技術、やり方を模索せざるを得ない社会です。

その地域から逃れられない人のために
 私が現地に赴任したのは84年4月のことです。私たちの出発点は、ハンセン病根絶のための、ハンセン病コントロールセンターを充実させてくれという要求に応えたものでした。行ってみてびっくりしたのは、当時登録されていた患者2400名に対し、病床数がわずか16床。その後患者が増えまして、現在約7000名、最終的には2万名に達するであろうと思われます。医療用具もほんの少ししかなく、消毒をどうやったかというと、オーブントースターにガーゼを詰めた金属製のボールを入れて中に入れ、煙が出始めたらぱっと出す。きつね色に焦げているのは消毒済み、白いのは未消毒という見分け方をしました。そういう状態から始まって、物や金も大切だということで、ペシャワール会の活動もにわかに活発になってきました。

 現在では、うちの診療所に送りさえすれば何とかなるというというところまではきました。ハンセン病の治療は色々な局面がありまして、ただ単に薬を与えるということではなく、麻痺した手足を動かす手術や失明のケア、整形外科、形成外科、神経病学、皮膚科学という色々な分野が一緒になってできた一つの総合医学です。北西辺境州とアフガニスタン全土で、ハンセン病治療ができるまともな施設はうちの診療所1軒だけです。そのため登録している七千名の患者の大きな後ろ盾になっています。

 私たちは医療団体で医療活動をしているのですが、実際の活動は一見医療とは関係ないことに注がれてきました。その一つに、現地の文化が日本と見るもの、聞くことが随分違うわけで、これをいかに理解するかということです。私たちが対象とする患者さんは、ほとんどの人がその地域社会から逃れられずに、逃れたくても逃れるお金もなく、あるいは、地域社会に安住している人たちなのです。この人たちがその地域のなかで、いかにより幸せな気持ちで暮らしていけるかを考えないと本当の医療はできないんです。

 ここに私たちと、色々な外国からくる団体との相違がありまして、外国の団体に一番多いのは、女性にブルカというかぶり物をさせる習慣に対する反応です。

 これはハンセン病のコントロールの面からみても障害なんです。ハンセン病の初期症状は背中やお尻などの皮膚に表れますので、チェックする必要があるのですが、現地では女性の素肌を見るのは非常に失礼にあたるのです。

 ちなみに、日本で言うところのセクハラ、女性に対するいたずらや婦女暴行は死罪です。それも警察に頼るのではなく地域の慣習法によります。もしこの国会が一つの村だとしたら、国会で殺人事件が起きてそれを目撃した議員さんが犯人を射殺してもそれは黙認される社会なのです。しかしこれには厳格なルールがありまして、わけもなく人を殺したら住民の制裁による処罰を受ける。いわゆる法治国家ではないのです。しかし、そういった厳格な慣習法が犯罪や暴力の抑止力となっています。

 さて、女性がブルカをかぶるという習慣が世界で問題視されていますが、確かに自由であるというのはいいのですが、外国の団体の中にはこれを許すべからざる人権侵害であるといって、現地でトラブルを起こす人がいます。ある場合には追放になり、逮捕され、彼らが自分の国に送還されると、ロンドンやニューヨークで凱旋将軍のように迎えられヒーローになります。しかし、私たち医師の立場から言いますと、じゃぁこの人たちを連れて行ってください、最後まで面倒をみてください、と思わざるを得ないのです。

 あなた方は自分の考えを主張できて満足するだろうけれど、私たちが対象とする患者さんをどうしてくれるんだ。私たちは、ここから逃れられない患者さんがその社会のなかでより幸せな状態になるにはどうしたらいいかという実際の面を考えざるを得ないのです。私たちは長いスタンスで活動していますので、外国人に荒らされたくない。現地の人も似たような気持ちであろうと思います。人権団体が入ってくる。軍隊が入ってくる。ソ連軍が入ってきて、アメリカ軍が入ってきて、ロシアが武器援助をする。アフガニスタンは外国人によって踏み荒らされたものであるという、攘夷論がアフガニスタン全体を民衆レベルで支配しているというのが事実です。

 ただ、こればかりは外人部隊に頼らざるを得ないのですが、ペシャワール会からこの10数年間の間にのべ20名前後の女性ワーカーが現地に赴きました。もちろん現地社会は女性にとってはヤワなものではない。言葉は悪いけれども、女子どもがうろうろするところではないのです。しかし、11年もいる強者もおりまして、彼女らの存在によって、それまでの考えられないような女性への診療の質の悪さが随分改善されました。これは我々がした仕事のうちで一番いい仕事の一つではなかったかと思っています。

ハンセン病治療だけでは間に合わない
 アフガニスタンは、1979年12月に、当時アジア最強、世界最強といわれたソ連軍が、ときの共産党政権を守るという理由で、大挙して押し寄せました。結果、この内戦で死亡した者は、戦闘員だけで数10万名、非戦闘員を入れると200万名はくだらないだろうと言われています。難民になって国外に流失したのはパキスタンだけで約300万名。ペシャワール周辺の北西辺境州に流出したのです。あとの200万名がイラン側に逃れ、合計約500から600万名が難民になって国の人口の半分が流出、アフガニスタンは壊滅的な打撃を受けました。

 私たちも医療の立場から自然とこれに巻き込まれていったわけですが、私たちが目にした光景は鬼気迫るものがありました。国境地帯に辿り着いた数百名家族が、冬は非常に寒いですから、一晩のうちに凍死してしまうこともありました。約1000人が一夜にして凍死するのです。

 我々は、初めは難民キャンプで細々と医療と医療活動をしていましたが、とても間尺に合わない。ペシャワール側でじっと患者を待っていてはだめだということに思い至り、方向転換しました。ペシャワールに逃れてくる難民はやがて帰って行くべき人たちであって、一時的な存在なのです。ハンセン病というのは非常に時間のかかる、数10年という時間のかかる仕事ですから、長い目で見ると難民が帰った後のことも射程に入れて考えなければならない。

 しかもハンセン病だけ診る診療は現地では成り立たない。ハンセン病というのは他の感染症と比べて非常に少ない病気なのです。そのために膨大なエネルギーを費やすことはできない。片やマラリアで死にかけているのに、あなたはハンセン病でないから診ないというわけにはいかない。しかもハンセン病の多い地区というのは、一般の感染症、腸チフス、結核、マラリア、デング熱というありとあらゆる感染症の巣窟なのです。我々は将来的にはアフガニスタンの山村の無医地区に一般診療所を開設して長く存在したい。ハンセン病は色々な感染症の1つとしてさりげなく診る、偏見も避けるという戦略を立てました。

 当時内戦が激烈な時期で、とてものこのこと診療にきましたなどと入れる状態ではなかったのです。我々はまず、ペシャワール側で人育てをしながら、やがてソ連軍が帰るだろうとふんで、地域の調査を始めました。人口はどれくらいでどんな病気があるのかもよく分からなかった上、地図を見ても書いていない村や道がたくさんあるのです。私たちは地域の実情を知るために、内戦をかいくぐって、国境沿いはとても通れませんでしたので、山越えをして歩きながら現地と接触を深めていきました。

 カーブルから飛来してくるソ連軍の爆撃が酷い時期でした。ソ連軍の戦略は近代化のためには保守的な農村を丸ごと葬ってしまって、人口を都市に集中させて管理するというものでした。そのために、女、子どもも容赦なく、一つの村を殲滅するということが普通に行われました。これに対して、住民自身が、各地域バラバラに抵抗しました。男たちは村に残り、女、子ども、お年寄りなど弱い人は難民キャンプに送って闘いを続けました。戦った男たちも猛々しい人ではなく、普段はお百姓さんなんです。簡単に言いますと、日本の刀狩り以前の侍とお百姓が分離していない社会のようなものです。

 話が脱線しますが、地域によっては外国人を見たことがないという人も珍しくないのですが、何故か日本人のことは、みんなよく知っているのです。世界で一番親日的な国はアフガニスタンだといってもいいでしょう。私たちが国境を通過する時に、外国人は通過禁止となっている時も、日本人だというと、「アフガン人ではないが外国人とは言えない」と通してくれるのです。日本人には特別な感情を持っているようです。どうしてか分かりませんが、彼らが知っているのは、日露戦争、それから広島・長崎の原爆はどこに行っても、どこのお百姓でも知っていました。アフガニスタンの知識人も含めて信じられている日本についての迷信があって、日本とアフガニスタンの独立記念日は同じだ、というものです(笑)。

 長い目で見た国際環境は日本とアフガニスタンに共通点があります。日本は島国であり外国の勢力が届きにくい極東である利点を生かして、北方からの驚異と南からの驚異のサンドイッチのなかで独立を達成し、明治維新で国民国家を作りました。アフガニスタンは、島ではなくヒンズークシュ山脈という、人が近寄りにくい天然条件を生かして、言語だけでも30以上の民族があるなかでアフガニスタンという同一性を作ってきた。彼らの誇りは、英軍が2年もアフガニスタン征服を企てましたが、その都度撃退したことです。

 そんなわけで日本についてはみんな知っているんだけれど、オランダの隣にあるらしいとか、出島の話がそんなふうに伝わったのでしょうか(笑)、歩いて何日かかるとか真顔で聞かれながら、我々は歩いて住民との親交を深めてきました。

マラリアの大流行をくい止める
 さて、ソ連軍が引き揚げて、難民が帰ることになると、ヨーロッパのNGOが押し掛けました。日本も竹下首相の時でしたか、数10億ドル出しました。今更いうのも何ですが、あの時の数百億ドルのプロジェクトで2、300万人難民で帰った人はほとんどいなかった。そのうちに湾岸戦争が始まり、ソ連が崩壊するというなかで難民を帰すプロジェクトは途中で撤退しますが、真っ先に逃げ出したのは、欧米諸国のNGOと国連職員でした。国連の中でも酷いことに、アジア系の国連職員を残して、欧米人はみんな帰ってしまったんです。そういういきさつのなかで、国連や欧米のNGOは決定的に信頼を失ってしまったんです。

 アフガニスタンの共産政権が倒れると、カーブルは昔の日本でいうと京の都にあたるので、カーブルを目指して各政治党派がわんさわんさと押し掛けました。その分地方は平和になりまして、戦場が農村部から都市部へ移りました。農民だった難民はそのような事情をよく読んでいて、自発的な難民帰郷が始まりました。それも国連は帰る家族に僅かな援助をしましたが、ほとんどは誰の力も借りずに難民200万人がひとりでに帰りました。このことはあまり報道されませんでしたが、恐らく国連や西側が恥ずかしかったんでしょうね。私たちは今から活動する時期がきた。私たちがやらなくちゃと猛烈に活動を開始しました。

 難民は帰ってきたものの、家は荒れ果て、畑は10数年間放っておいたので耕作できないので、我々は農村部に支援を集中させました。というのは一番困ったときに必要なのは食べ物です。電気製品は食えるわけじゃない。戦後の日本と同じように、飢餓状態のなか一番必要なのは食べ物です。しかもアフガニスタンは農業国ですから農村の復興を援助するかたちで猛烈な援助を開始しました。

 アフガニスタンの東部山岳地帯の3つの診療所はその時に次々建てられたものです。我々は、帰ってくる難民を待ち受ける形で診療所を開く、難民にしてみれば不安を抱えて帰ってみると、元々無医地区なんですが、といってもアフガニスタンのほとんどが無医地区で、医者のいる地区を探す方が大変だったんですが、帰ってみると診療所があるではないか。お医者さんがいて検査技師もいる。我々は医師一名、検査技師二名、看護助手2、3名というチームを組んでいました。ちゃんとした診療が受けられ、安心して村の復興に励める、ということで、日本の数県に匹敵する地域の人々の支えになりました。

 当時、忘れられないのはマラリアの大流行があったことです。92年に難民が帰り始め、93年にはすでに水田が復興してくる。すると蚊が発生し、マラリアが流行ります。この時大流行したのは悪性マラリアで、免疫がない状態でかかると死亡率が非常に高い。日本でも外国でかかって日本で死ぬのが年間三十名をくだらない。しかし、我々が頑張って対応できるのはせいぜい70万から80万名なんです。その中で、このとき明らかにマラリアで死亡したと把握できる人の数が約六千名。

 そのため人々がパニック状態に陥りまして、薬を取りに治療を受けに診療所へ押し寄せる。しかし我々は日の出から日没まで働いても、診ることができる人数は200名から300名がやっとなんです。すいませんが、明日の朝来てくれませんかと言わざるを得ない。ところが何日もかけて来た患者は家族のことが心配で、不安にかられて診療所を襲撃するということも起きました。

 私はちょうど、北部からの調査から帰ったところでダラエ・ヌールという場所にいましたら、診療所が住民から包囲されているという知らせを受けました。そのうち投石が始まり、投石ならまだいいけれども、内戦直後でまだみんな武器を持っていましたから、飛び道具が飛んでくる、ロケット砲が掠める。職員が二名殉職しました。当地の風習として、お客さんをもてなすのを重んじることと、目には目を歯には歯をという復讐法が徹底していて、地域の人間関係と治安を規定していました。2人殺されたのだから、我々も殺したグループから2人殺らないと我々の恥になるという社会です。

 職員約20名が、みんな私の命令を待っていました。「シンパを集めて抵抗せよ、二人を殺せ」という指令が出るかと思っていたようですが,「発砲しちゃいかん、絶対に発砲するな」。ある状況下では、発砲しないでいるより、発砲した方が遙かに容易であります。しかし、私が発砲するなと言ったものだから、みんな耳を疑いまして、「先生本気ですか」と聞くのです。「本気だ」「我々が皆殺しになってもですか」「そうだ、皆殺しになっても発砲しちゃいかん」。

 ちょうど、我々の診療計画がスタートしたばかりで、我々10数名が死んだところで、後に数10名がペシャワールに控えているじゃないか。彼らが後を引き継ぐ。攻撃した者は後で必ず後悔する。しかし、ここで我々が発砲すると全てが無駄になる、とみんなを説得しましたが、さすがにみんなびっくりしまして、呆気にとられて発砲しなかったというのが実状です。幸いその後、襲撃は夜が来たので止みました。

 翌日、その谷の長老会を開かせまして、私はあんまり人を怒鳴ったりしないのですが、席上、さすがに「君たちのこのやり方は何であるか。我々は朝から晩まで何の政治的な下心もなくみんなのために診療をしているのに。ともかく、村の治安を回復しろ」と怒鳴りました。若い者に診療所を守らせると同時に、「薬のことは心配せんでいい、俺がペシャワールに行ってどかんと持ってきてやるから」と約束をして、また山越えをしてペシャワールに戻りました。

 福岡の事務局に電話をして「おい、ありったけのゼニを全部送れ」と言うと、「先生、30万円しかない」というのです。その30万円でいいからみな送れと言ってぞっとしました。この30万円で人がどれだけ救えるか。その当時、悪性マラリアに有効なキニーネという薬の一人あたりの薬代が220円、マイルドセブンと同じ値段です。30万円割る220円が助かる人の数です。1600人位しか助けられないということなんです。

 その後ペシャワール会が新聞やテレビで訴えかけましたところ、日本人も捨てたものじゃない、数千万円の募金が寄せられたため、我々が各地を巡ってマラリアを潰して回りました。幸い冬がきて、蚊の発生が止まるという勢いに乗じて、それ以上の流行は収束しました。これによって地域のマラリアは慢性的には発生していますが、大流行はなくなりました。東部では、これによって私たちの会は、人々の信頼を得ました。

 そうやって診療してきましたが、車が行けるところはまだましで、本当に困っているところは歩いて行かなければならないのですが、アフガニスタンでは一番高地といわれるヌーリスタン、パキスタンでは北の最果てのワハン回廊の近くのバローギル峠まで、私たちの診療所は建っています。

 僻地の診療所に歩いていかなければならないなかで、国際地域医療とはいかにあるべきかなんて話を聞けば聞くほど虚しいんです。地域に行ってみなければ分からないと言うと議論は途切れますが、ともかく地域住民とともに歩んで、この地域の人にとって一番いいのは何かということをともに探っていく段階です。

 批判はできますが、では我々に何か代わるものがあるかというとなかなかない。時には、何も好きこのんでそんなところに行かなくてもとか、中村は山が好きだから行っているんだろうという人がいますが、とんでもない、そういう悪口を言う人が行かないから私たちが行っているのであって、私たちの方針は、人がわんさわんさといるところなら、我々がやらなくても誰かがやる、そうではなくて、人の行かないところに行く、人がしたがらないことをするというものです。

 今回の干ばつにさいしても我々は。国連機関や世界中のNGOが押し掛けてやっているようなことはやりませんが、昨年から本格的な干ばつ対策を開始しました。

 そうこうするうちに15年が経ちまして、とてもこれは、20年、30で終わる問題ではない、そこで第一期の区切りをつけて診療基地病院を3年前に立ち上げまして、第1期15年終了、今年は第2期30年の4年目に相当します。

世紀の大干ばつで400万人が飢餓に

 昨年アフガニスタンを襲ったのが世紀の大干ばつ。中央アジア全体、周辺諸国を合わせると約6000万人が被災しました。そのうちアフガニスタンの被害が激烈で、1200万人が被災した。昨年5月、WHO発表の数字ですが、1200万人が被災して、飢餓に瀕する者が約400万名、死ぬであろうという飢餓寸前の者が100万名という数字を発表しました。これが決して誇張された数字ではないというのが私の印象です。飢餓といってもお腹が空いてバタッと倒れるわけではないんです。末期は下痢にかかったり、色々な病気にかかったりして、栄養失調になって亡くなるんです。ですからそういう数も入れますと100万人というのは決して誇張された数字ではないのです。

 しかし欧米諸国にはアフガニスタンに対するネガティブなイメージがあって、救援がなかなかこない。我々は国際団体が押し掛けるときには引き揚げようと思っているのですが、なかなか来ないんですね。それどころか国連制裁で物資がますます途切れるというなかで、ものすごい干ばつで、診療所周辺で村が消えていくんです。耕作する農業用水が無くなるだけではなくて、飲み水が無くなり、家畜も売らざるを得ない。家畜を売るときは農民としての最後です。家畜を売り払って町におりてくる。次々と廃村が広がったわけです。

 こういう状態のなかで、私たちの診療所にはえらく人が多く、大半の犠牲は子どもでありまして、なかには……子どもを抱いた……母親が、外来で待っている間に体の冷えていく我が子を抱いている、という姿もたくさんありました。お医者さんがこんなことを言うと顰蹙を買うかもしれませんが、ともかく病気どころではない。病気は生きておれば後で治せる。ともかく村に健康な状態で留まれるように、そのためには水だということで、診療所周辺から飲料水確保という計画を始めました。現在、約600数十カ所で作業地を持っていまして、五百数十カ所で水を出しました。そのために村に留まって流民化しなくてすんでいる人が25万人から30万人にのぼります。

 ダラエ・ヌール診療所というのは、タリバン政権と反タリバン勢力の係争地になっていて、去年の8月、今日は派手にやってるなと思って目が覚めてみると反タリバンの人が治めている。それから2、3日たってみると今度は、またタリバンが取り返しているというなかで作業を続行しました。水路、現地ではカレーズ、カナートとも言いますが、水路の復旧にも着手しまして、その結果、砂漠地帯が、緑の麦の原っぱになるという奇跡的なこともおこりました。私は人から誉めてもらおうと思ったことはありませんが、これだけは誉めてもらいたいと思いました(笑)。緑の畑が戻ってきて、そのために村を捨てた難民1万数千人が帰ってきました。

 このように水源確保の作業地を年内に1000カ所に増やそうとしていたところに、ニューヨークのテロ事件が発生しまして、やむなく日本人だけは退去しました。しかし、現地の人は、「我々は潰れるまでやります」と、現在も作業を続行しています。診療所も平静に運営しています。町は非常に静かです。

日本で伝えられることの違和感
 世界で一番治安がいいところはどこかというと、戦闘地を除いてはアフガニスタンです。日本でこんなことを言うと、きっと報道管制があるのだろうと言われますが、報道管制をできるほど組織だった国ではありません。みんなが信頼を寄せているニュースソースはラジオのBBC放送で、現地のパシュトゥー語という現地語とアフガニスタンの国語であるペルシャ語と、パキスタンの国語であるウルドゥ語の3つに訳されて、国営放送は事実ではないことも発表するので、みなBBC放送を元にして判断しています。私は日本に帰ってきて、報道管制にあっているのはむしろ日本ではないかと感じました。現地は意外と冷静に判断していますし、民衆レベルでことの流れを知っていますが、それでも冷静に判断しています。

 私が見聞きしたところでは、ニューヨークのテロ事件にさいして、アフガンの民衆レベルの反応は、むしろテロの犠牲者を悼む声の方が強かった。というのも彼らは20年以上の内戦で血なまぐさいことに疲れ切っているんです。これ以上また騒ぎを起こして、人が死んで、まぁかわいそうに、と自分たちも肉親を亡くしていますからそれがよく分かるんですね。ところが、米国の報復が自分たちに向けられるということを知ってから、元々ある伝統的な反英感情が反米感情に転化して、鬼畜米英という声がタリバンの抑えを越えて、民衆レベルで沸き上がってきつつあるというのが現状です。
 そうすると日本で聞くのとは随分事情が違うと思うわけです。

 私たちの活動は医療を基本にして、後には井戸掘りなどの事業もありますが、公衆衛生も含めた医療活動を中心に展開して、それも記者会見に出てくるような偉い人ではなく、99%を占める一般の民衆のような声の届かない人たちと接してきました。英語がほとんど喋れず、外国人とほとんど接触できない、ましてや外国に逃れることなんてできない。こういう人たちの声はほとんど日本に伝わっていない。この活動を通して、向こうの一般の人々の声や考え方が伝われば、実状を知っていただきたいと思います。

 我々も戦時下でも活動を継続します。戦時下でもプロジェクトを継続する準備のためこうして一時帰国しましたが、細々とであるけれども、文化も顔も言葉も違った国の人々を理解していく民間の橋渡しになればという気持ちで今後も活動を断固継続していきたいと思っています。

 今、日本は何をなすべきいかという観念的な議論が多く、現地の情報がないままに状況が進んでいます。繰り返しますが、日本は報道管制でもされているのではないかと思うほどです。
 政治的なことは言いたくありませんが、とにかくアフガニスタンの正確な情報を知ってください。政治家の方たちは、それから判断してください。日本は、アメリカに追随して、この不況のなか、たくさんお金を使って、元々親日的なアフガニスタンの民衆に被害を及ぼすような武力行使の支援をするより、今は何をなさざるべきかということを冷静に考えてみることも必要ではないでしょうか。

 干ばつによって農業生産力の九割が打撃を受けているところへ報復攻撃が始まれば、100万人単位の人が死に、衆人環視の下でホロコーストと同じ状態を生むことは間違いありません。

 一握りのお金持ちは外国へ逃げていきましたが、今、首都のカーブルに集まっているのは飢餓難民。空爆があったときに死ぬのは国外へ逃れることさえできない貧しい人たちです。後で実状が分かったときに、報復攻撃をした人は必ず夢見の悪い思いをするでしょ。


 根津集会、成功、ご支援有難うございました。
 本日、渋谷勤労福祉会館で行われた「根津さんは指導力不足教員ではない!−教育現場の自由と
真実を守る集会」は会館で一番大きな部屋でしたが結構いっぱいになりました。うれしかったです。
いろいろな立場の人の参加があり、親組合の東京教組、多摩教組、参加した教員ひとり一人に
とって大変参考になる貴重な意見が伺えました。

 根津さんと市民のみなさんの闘いを十分とはいえませんが一定程度伝えることもできました。どん
なに本人自身が切り拓いて行ったか、市民の皆さんが連日のように行動していること、毎週のチラ
シまきがどれほど効果があるか、・・・・を伝えることができたと思います。

 同じ組合でも、アイム'89の方が遠慮がちながらもしっかりとしたアドヴァイスを「行政にうるさがられ
るようにならなければいけない。組合員の不利益には黙っていないぞという態度を見せなければ
いけない」と発言してくださったのもとてもよかったと思いました。この問題を、組合の違いを超え
て心から心配してくださっていることがよく分かりました。

 東京教組の谷口副委員長からは「交渉事項ではない」と突っぱねる都教委を相手に交渉の窓口
を開くために努力しているという報告がありました。

 組合員の方からも東京教組に期待しての発言が相次ぎました。

 多摩教組からは「組合としてはできないとは言わない。組合員を支えていく。弁護費用を補償する」
といううれしい話がされました。

 市民からは、「学校の先生は、校外に出て、発言し、発信して、手をつなぐ相手を求めていってほし
い」「学校の問題はもう学校内だけでは解決できるような状況でなくなってきている」とエールが
送られました。

 29日午後2時からは、市民の会が都教委に交渉を持ちかける予定です。
 30日正午から13時には都教委で三度、根津さんの弁明が行われるかもしれません。
 30日の予定は未定なので、多摩教組に確認してください。(042−571−2921多摩教組)

 「校長のでっち上げを許さない教員の会」としても要請や抗議にとりくみます。
参加された皆さん、参加できなかった皆さん、今後とも宜しくご協力ください。
実り多い一日でした。

 後悔一つ、「せっかく同じ日の午後行われた東京教組教研集会で講師の辛淑玉さんが根津さん
を応援する話を向けてくれたのに、何も反応できなかったこと」何と反応が鈍いって辛淑玉さんは
思ったことでしょう。ああ、悔しい。

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